広く知られている、俳人正岡子規について、その人生の実態や俳句だけではなく、今日の日本文学に対する功績の大きさを、どれほど知らなかったのかを思い知らされた一書でした。俳句や短歌に興味のお持ちの方すべてにお勧めしたい労作です。
今日、よく知られている明治以前の俳人といえば、先ず松尾芭蕉、ついで小林一茶、そして与謝蕪村が挙げられるでしょう。今日では常識となっているこの認識ではありますが、最後の、与謝蕪村を俳句の歴史に初めて登場させたのがこの正岡子規だったのです。
「春の海 終日のたりのたり哉」でよく知られる蕪村は、同時に著名な画家でもありました。描写的な表現をとった蕪村の絵画は、俳諧的表現にもそのまま表れ、その点で、「写生」を俳句創作の基本的な姿勢とした子規に見出されたことは、結果的には必然だったのでしょう。
また蕪村がそれ以前の俳人の伝統であった、連歌としての「句」ではなく、独立した「発句」をもっぱらとしたことは、正岡子規が打ち立てた、独立した「発句」を「俳句」とした一大功績の先駆的な文芸活動でもあったのです。ホトトギス派とも、写生派とも呼ばれた正岡子規とその賛同者達の俳諧の世界は、その点で「蕪村派」と呼ばれてもしかるべきものであったようです。俳人でもある著者坪内氏は、こう述べています。
「俳句の革新を通して、『俳句』という呼称が一般化し、人々はもっぱら俳句だけを作るようになった。子規は、『俳句の時代』を開いたといってよい。また、松尾芭蕉をいたずらに神格化することを否定し、その一方で埋もれていた与謝蕪村を発見して高く評価した。」
近代文学史に「俳句」をもたらした子規は、それにとどまらず、「短歌」の創設者であったともいえるようです。それ以前まで、和歌の最大の権威であった紀貫之と彼の作品を含んだ「古今和歌集」に代えて(むしろその権威を否定して)、「万葉集」を称賛した子規は、革新なった俳句の延長上に短歌を置き、その後「俳句は空間を描くことに特色が、短歌は時間(リズム)を描くことに長所があることに気づき、素朴で明快なリズムにのせて風景の再構成を行うようになる」のです。蕪村を見出したにとどまらず、今日の「万葉集」研究の盛隆も実は明治期の子規によって契機付けられたのです。
そして著者が子規の功績の三番目に挙げるのが「文章運動」です。著者は、子規の文章運動の価値を最初に見出したのが、民俗学者、柳田国男であったと紹介し、さらに別の観点から再評価したのが、司馬遼太郎であると説明しています。子規の学友であり文学上の友人でもあったのは夏目漱石ですが、その同窓に南方熊楠がいました。この南方熊楠に心酔した時期もあった柳田国男は、子規に関する何らかの情報を南方から得ていたのかもしれません。
さてこの本で紹介されている司馬遼太郎の評価を孫引きしましょう。
「文章を道具にまで還元した場合、桂月も鏡花も蘇峰も一目的にしか通用しないが、漱石や子規の文章は愚痴も表現できれば国際情勢も論ずることができ、さらには自他の環境の本質や状態をのべることもできる。本来、共通性へ参加してゆく文章語はそうあるべきものといっていい。」
続けて、坪内氏は、子規のこの文章運動成功について、一般的な研究者のあげる要素に加えて、「それら以上に大事なことは、文章を書くうえでの形式の活用ではなかったか。子規は、形式の力を活用して文章運動を行った。そして、その運動で最も成長した書き手は子規自身であった」と称賛しています。
漢詩、和歌そして俳諧に親しんできた正岡子規の文芸革新運動が本格化したのは、結核(肺結核)が吐血をもって発現し、自身の遠からざる死を認識した以降のことであるという指摘には、深く感銘を受けます。子規とはホトトギスのこと。喀血の直後よんだ句、「卯の花の散るまで鳴くか子規(ホトトギス)」は、子規の文芸革新運動を推進する強い決意表明とも聞こえます。子規は、喀血した明治22年(1889年22歳)以降、このホトトギスの漢字、子規を自身の文芸上の号としたのです。
死を身近に意識し、間断なく悪化していく体調に苦闘しながらも、新しい文芸活動へといそしんでいる自己を、決して悲壮感で包むことはなかったようです。最も有名な子規の句、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」(明治28年28歳)も、「柿などといふものは従来詩人にも歌詠みにも見離されてをるもので殊に奈良に柿を配合するとうふ様な事は思ひもよらなかった事である。余は此新しい配合を見つけ出して非常に嬉しかった」と回顧され、読みようによっては悲壮感漂う印象を否定しています。筆者は、この「柿くへば」に先行して、友人夏目漱石の歌った、「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」があり、この子規の代表句は、ある意味で「漱石との共同によって成立した。それは愚陀仏庵における二人の友情の結晶だった」と教えてくれます。
子規の絶筆、三句です(明治35年34歳)。
をととひのへちまの水も取らざりき
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
痰一升糸瓜の水も間にあはず
そこにある死を前に、死後の自身を客観化し、写生に徹した凄まじさを感じる句だと思えてなりません。病床にありながらも、詩歌、俳諧に献身したことが広く伝えられる子規ですが、近代文学への基本的な貢献の大きさをもっと評価されてしかるべき存在であったことをよく知らせてくれる著作です。ご一読下さい。