日本のプロ野球界では、今年もリーグ戦の最終盤を向えながら、セ・パ両リーグとも首位攻防を巡って白熱した試合展開を繰り広げ、その日の勝敗の結果めまぐるしく変わる順位に、かつてないほどに多くの野球ファンを魅了しているようです。他方、プロ野球のメッカ米国でのメジャー・リーグの趨勢にも、多くの日本プロ野球出身者が選手として活躍していることによるのでしょう、連日新聞紙上やテレビでその結果が報道され、もはや日常のある意味での必須情報となってきた感があります。
かつて、セ・リーグでは、「金に飽かせて有名選手を買い切り、強い球団作り」を志向し続けてきた読売巨人軍は、やっかみを含めて「金満球団」として指弾されてきましたが、ここ数年その最大のライバルであった 阪神タイガースも同じ轍を踏んでいることは誰の目にもはっきりとしてきました。他方このセ・リーグで、あまり「お金をかけてこなかった」広島東洋カープとヤクルト・スワローズは今期最下位を争う羽目に陥っています。投資金額に見合った勝負の結果が今期のセ・リーグの行方のようです。
さてこのわが国の「金満球団」読売ジャイアンツ以上に、投資を惜しむことのないメジャー・リーグの球団が、ニューヨーク・ヤンキースであることは誰もが知っている事実です。この「マネー・ボール」は、投資金額はメジー・リーグで最も少ないにもかかわらず(おそらくニューヨーク・ヤンキースの4分の1以下)、毎年高い勝率を上げ、ワールド・シリーズに関わることのできている、「不思議な球団」、オークランド・アスレチックスに焦点を当てています。読後の率直な感想、大変面白い本である、これは間違いありません。
2000年にはアメリカン・リーグ西地区で優勝、翌2001年にはア・リーグでのワイルドカード獲得、2002年、2003年と連続ア・リーグ西地区優勝、2004年、2005年と低迷するも昨年2006年には再度西地区で優勝するという輝かしい歴史を近年誇っています。このオークランド・アスレチックスの2002年の総年俸は、西地区の最低、同地区でその2.5倍に上る年俸を投資したレンジャーズは最下位というデーターを掲載して、この不思議な(年俸と順位の)「反比例」を著者マイケル・ルイスは具体的な各球団の年俸金額を挙げています。
いうまでもなく、プロスポーツは、勝利することを通してファンを獲得し、その持続を通してチームの経営を図ろうとします。いかに勝つかに全ての経営の目標は定められます。優秀な選手や整った準備環境が、高額な投資によってのみ確保できてきた歴史が、日米を問わないプロスポーツの経営姿勢でした。しかし、より少ない投資で、この勝利という目標をどのように経済的に(よりお金をかけないで)実現していくのか、という目標をたてたのは、ここでスポットライトを浴びている、アスレチックスのジェネラル・マネージャー、ビリー・ビーンでした。
日米共通に、良い打者のポイントは、本塁打数、打率、打点であり、良い投手のポイントは、勝利数、勝率、三振奪取数、セーブポイント数とされています。(最近のメジャー・リーグでは、日本プロ野球では注目されることのないOPS−長打率と出塁率の和―を重要視するようにはなっています)しかし、誰でも眼を向けるこの判断基準をまったく別の観点から見直すことによって、オークランド・アスレチックスのきわめて効率的な球団経営と勝利という結果がもたらされていることに「マネー・ボール」は気付いたのでした。
長い歴史と伝統をもつメジャー・リーグの選手判断基準を、異なった観点から見直し、まったく新しい選手評価基準を作り上げたのがビリー・ビーンとそのスタッフであることを詳細しています。打点は、走者が得点圏内にいるという状況の結果であるにすぎないのでさほどの評価に値しない。打者にとっての重要な要素は得点をあげることなので、いかに出塁するか(ヒットであるか四死球であるかを問わず)に重きを置き、他チームでは1:1の計算をするOPSを3:1として新しい指標を設定する。また、リスクのある盗塁や、アウト数を増やす犠打を極力戦術から排除する。またこの逆で、投手にとっての評価基準は、いかに打者をアウトにとるかなので、与四球、奪三振、被本塁打に重きを置き、OPSの反対である、被長打率(対戦した打者の打数の合計で被塁打を割った値)を採用し、同時に打球がゴロになる率も加味(長打となる可能性が低いため)、逆に、偶然を伴った結果論でしかない被安打数、防御率、勝利数、セーブ数、そして球速には、それほどの重きを置かない。
かつてメジャー・リーグで、選手の評価を総合統計的に判断しようとする流れ(セイバー・メトリクス)があったことを、マイケル・ルイスは紹介しています。しかしその統計的なデーター解析に基づいた科学的な提案は、メジャー・リーグの現場の長い経験と感性は受け入れることがありませんでした。経済的な基盤の脆弱な球団を任された、元大リーガーで選手としては大成することのなかった、ビリー・ビーンだけが、その考えを受け入れ、それをより大胆に展開し、新たな基準とし、かつ実践したのでした。
重厚な文筆家であり、舌鋒鋭い文芸評論家であり(志賀直哉批判で脚光を浴びた)、かつ横浜ベイスターズびいきで有名な丸谷才一氏は、この「マネー・ボール」の巻末に解説を載せ、その冒頭に「多分これはかなり多くの優秀な読者によつて、最高の野球ノン・フィクションとみとめられるはずのものだ。第一に題材がすばらしい。第二に書き方がうまい。」と述べていますが、まったく同感です。
ビリー・ビーンの個性的な性格が決してほめられた部分だけでないことを余すことなく描いていますし(時としてユーモラスです)、またビリーによって見出された選手、サビマリナー(下手投げ投手)チャド・ブラットフォードに関する逸話は、前後の関係を無視したとしても、それ自体として秀逸な短編小説です。
また、他方で、既存の観点とはまったく別の観点から物事を見つめ、新しい価値観で既存の、それも長い伝統を持つ組織の伝統(悪癖)に挑み、これを改革、克服し、なおかつその作業を持続していく必要性は、メジャー・リーグという経営体にとどまることはないでしょう。プロスポーツ界、若しくはすべての経営体にいえるとさえ付言できるでしょう。丸谷才一氏は、解説の最後にこう書いています。
「ものの考え方を改めれば話しが違ふ。別の天地が開け、新しい勝者となる可能性が生じる。さういふ、思考と生き方のためのマニュアルを彼は書いた。
ですから、『マネー・ボール』はいろんな世界で応用がきく。科学者が読んでも頭が刺激されるし、デザイナーが手にとっても参考になる。まして経済関係の人には非常に有益だらう。」
「マネー・ボール」で描かれた世界をどこまで普遍的なものとして読み砕くかは読者の問題であるとしても、少なくともメジャー・リーグの世界を、独特の管理方法という観点から、初めててメスを入れた秀逸なノンフィクションであることには間違いありません。メジャー・リーグ通の尊敬すべきお二人、向井万起男氏(宇宙飛行士・向井千秋氏の伴侶)や李啓充氏(週刊文春で「大リーグファン養成コラム」を執筆中)に、これでほんの少し近づけた気がするかもしれません。
プロ野球がお好きな方はもちろん、プロ野球に何の興味がない方でも、組織のあり方、管理の方法について興味があればお読みになることをお勧めします。繰り返しますが、面白い一冊ですよ。