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ホーム/コラム/みだれ観照記/ビリー・ホリディ

第05回 2002/05/31
ビリー・ホリディ 音楽と生涯
05

書名:ビリー・ホリディ 音楽と生涯
著者:スチュアート・ニコルソン
翻訳:鈴木玲子
監修:大和明
出版社:日本テレビ
出版年月日:1997年8月31日(英文のオリジナルは、1994年出版)
書籍に関するサイトが見つかりません。
ISBN:4−8203−9664−1 C0073
価格:3,800円

今年4月下旬、偶然アメリカの古い番組の再放送で、エラ・フィッツジェラルドを主人公に、本人も登場した、特定の歌手もしくは映画俳優の人となりや、業績を掘り下げる好評な番組を見ることがありました。エラは、1996年6月に78歳で逝去したわけですから、この番組はその直前に収録されたものと思われます。

そこで、司会者の質問、「あなたは、ビリー・ホリディとよく対比されますが、ビリーをどう思われますか?」に対して、「ビリーとは、本当に良い友達で、ビリーのお母さんがレストランで働いていた頃、よくご馳走になったものよ」とやんわりと回答をはぐらかしていました。

ビリー・ホリディとエラ・フィッツジェラルドという、20世紀のジャズシンガーの両巨頭を、簡単に本人から評価させることにはかなりの無理がありそうです。今回、ご紹介する「ビリー・ホリディ」の伝記は、少なくとも20年以前に最初に読んだものですが、この番組で、あらためて、エラとの接触の部分を確認してみようと思い立ち、再度眼を通してみました。

訳者である鈴木玲子氏がそのあとがきで記しているように、この翻訳には約2年間の作業が必要だったとのこと。それは、本書を読めばただちに判ることですが、何よりもビリー・ホリディを通して表現されたジャズに対する、広範かつ精緻な時代考証、音楽史上の位置付け、そして何よりも音楽技術そのものの緻密な分析がちりばめられているからに他ならない。恐らく、音楽、それもジャズにかなりの造詣がなければ、英語を母国語とする読者にとっても、この本は、きわめて難解であり、ただ眠気を誘うものでしかないかもしれない。

私は、ジャズそのものに特に造詣が深いわけではないが、現在聞くことのできるクラシック音楽を含めた女性ボーカリストの中では、ビリー・ホリディを最高として挙げることに躊躇がない人間である。若い頃、「Strange Fruits」を初めて聞いたときには、まさに震えるほどの感動を覚えた記憶が未だに鮮烈である。この本により、初めてジャズ音楽史に占めるその位置に眼を見張る思いがした。

ビリー・ホリディ、1915年4月ボルティモア(メリーランド州)、19歳の独身黒人女性の私生児として生まれる。(ちなみに、エラはそれから3年後の1918年生まれで、ほぼ同一の世代である)音楽に目覚めたのは、娼館にある蓄音機から流れる『West-end Blues』 (ルイ・アームソロングとホット・ファイヴ)と推測されている、ビリー13歳の時。

著者は、ビリーの音楽的要素の重要な位置に、幼少の頃のカトリック教会でのきわめて保守的色彩の濃い、「言葉の発音が非常に重要視される」要素を踏まえ、「歌詞の発音の美しさを身につけた」と推測する。音楽で自分を人前で表現することに人生に光明を見出そうとしつつも、日々の生活はすさまじい。14歳になったばかりで(1929年)、母親と一緒に売春婦の摘発により逮捕される。この後、ひたすら人前で歌うことを目指すようになり、1930年、15歳にしてキャバレー風の店でひっそりとデビューを遂げる。当時の映画スター、ビリー・タブの名前からビリーを、父親と信じる人物の苗字、ホリディを名乗るに至るのである。

これ以降のプロセスは、この伝記を是非お読みいただきたい。ここで思い起こすべきは、ビリー・ホリディが歌手生活のスタートを切る前年、1929年10月24日、所謂「ブラック・サーズディ」の株価の大暴落に端を発し、全米中がそして全世界が大不況の只中に入っていった時期が、この歌手の活動の背景を彩っていることである。またもう一つの要因として、戦前のアメリカでの黒人差別は、歌手としていかに有名になろうと、肌の色の違いを払拭するにははるかに遠かった事実である。(白人バンドマンと黒人歌手が同一の入り口から演奏場へ向かうことさえ不可能であった。)

著者は、1935年から1942年(20歳から27歳)までのわずか7年間で、「ビリー・ホリディは自らの芸術性を確立させた。」また、「通常の32小節ではなく30小節、36小節、38小節という変則的な長さの曲であっても、彼女はまったく問題としなかった。」こうして彼女の「曲の形式や構造に対する」「理解度の高さは、彼女の歌い方のヴァリエーションの多さに比例している。最もすばらしい点は、ハーモニーやリズムに、ほんのわずかな奇跡的なアイデアを加えただけで最大の効果を発揮している」ことを賞賛する。

他方で、今日ではあたりまえのことと理解される、(例えば『エルビス・プレスリー』と『ハートブレークホテル』が切り離せないような)曲と歌手の一体化(歌手の曲に対する権利の確立ともいえよう)を成し遂げたのも、ビリー・ホリディで、そのはじめが「Strange Fruits」であると解説してくれる。

 
「歌手と曲とがその独特の演奏の中で密接に結びつき、単純なコード進行やありふれた内容の歌詞から成り立っていたその曲を音楽的な要素のみならず、その歌手独自の個性やファッション、セックス・アピールといった非音楽的な要素の力をも動員して、他の追随を許さない完成度まで高めているのだ。」

だが、著者は、膨大な資料を駆使し、絶頂期を経たビリーが、次第にさまざまなドラッグに溺れ、幾度となく収監され、1959年ニューヨークの病院にて無一文に近い状態でわずか44歳の人生を閉じるまでを、時には冷酷とも思われるほどに、彼女の下降期をも客観的に描ききろうとしている。(復刻されたレコードとCDの売上の膨大な金額は、全て死後のことである)

常に正確さを期し、膨大な資料の収集に飽きることのない著者の真摯な姿勢をみることができる。また、それ以上に、音楽をこうも広い観点から、何百時間に及んだであろう復刻CDもしくは旧アナログディスクの試聴の結果、その技術的な構成要因に至るまで評価しぬける能力と、前後の歴史に関する深い知識には脱帽の思いである。