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第016回 2006/04/17
春は花─「京鹿子娘道成寺」の華麗な世界

DISC16

(日)東芝 TM7001
長唄『京鹿子娘道成寺』

唄:吉住慈恭, 吉住小三郎, 吉住小三治郎
 三味線:稀音家六四郎, 稀音家四郎助, 花垣長幸

(発売:1958年)


 日本列島が例年になく厳しい積雪と寒波に見舞われたこの度の冬だったが、流石に3月ともなると嬉しい花便りがあちこちで聞かれる昨今ではある。
 春といえば桜、筆者にとって桜といえば先ず想いだすのは、先年亡くなられた歌右衛門(6世)や梅幸(7世)、あるいは現・玉三郎が、たゆたう長唄を伴奏に美しい白拍子を踊る歌舞伎舞踊「京鹿子娘道成寺」(きょうかのこ・むすめどうじょうじ)の目の覚めるような桜の山を背景にした豪華絢爛たる舞台である。

 今回は、歌舞伎舞踊の伴奏音楽として発展してきた長唄の名人、4代目吉住小三郎師(のちの吉住慈恭)による、この「娘道成寺」を取り上げてみたい。
 吉住小三郎は明治9年(1876)東京生まれ、幼少のころから師であり父でもあった3世小三郎から徹底的に仕込まれるが、その父の早死により、明治23年(1890)僅か14歳で4代目を襲名。同年には早や歌舞伎座に出勤するほどの腕前だった。後年、名コンビを組むことになる三味線の3代目杵屋六四郎(のちの稀音家浄観)と知り合ったのもこのころである。2年後には、明治の大名優、9代目団十郎の「鷺娘」で唄方に列し、団十郎に認められるが、これが先輩のねたみを買い退座。しかし、再度9代目の要望により、「勧進帳」の脇唄として舞台に並ぶ。この団十郎を初め、5代目菊五郎など明治の名優たちを極く間近に見聞きしたという事実が、その後の芸にどれほどプラスになったことか。
 明治35年(1902)歌舞伎座を再度退座。盟友・六四郎とともに、“長唄研精会”を設立。以降、歌舞伎から独立した純邦楽としての長唄の発展およびその普及に傾注することになるが、設立当初の、とくに金銭上の苦労は並大抵のものではなかったようだ。その間、六四郎との合作も含めて、70に及ぶ新曲の創作や演奏技術の改善・発展にも大いに意を尽くした。明治の元老、黒田清隆や福沢諭吉らとの政財学界との深い親交を深める傍ら、昭和4年(1927)以降は、東京音楽学校でも教鞭を取ることになる。すべて長唄普及のためであった。
 昭和31年(1956)に、重要無形文化財指定。翌32年(1957)に文化勲章を受ける。昭和38年(1963)、慈恭と改名。昭和42年11月(1967)には、息子・孫とともに3代による宮中での御前演奏。昭和47年(1972)2月、死去。最晩年まで第一線で活躍され、95歳の大往生であった。

 さて、この「京鹿子娘道成寺」、江戸中期の宝暦3年(1753)3月、江戸中村座で、上方の名女形、初代中村富十郎が江戸での初お目見えの際、初演、白拍子役で大当たりをとった所作事であり、作曲は、名曲「英執着獅子(はなぶさ・しゅうじゃくじし)」などの作者としても知られる杵屋弥三郎、そしてこの時の立唄が、初代小三郎で、三味線は、作曲者弥三郎が受け持った。言わば、「娘道成寺」は、4代目にとっても、お家芸ともいうべき曲である。
 もともとは、安珍・清姫の伝説による能楽の「道成寺」を藤本斗文が脚色し歌舞伎化したものだが、立女形による長唄舞踊の傑作として現在でも最も人気の高い演目の1つになっている。歌舞伎自体、当初の阿国かぶき以降、踊りが中心だった。やがて、元禄期は、近松などの出現により演劇的要素が強くなったが、享保期ころから再び女形中心の舞踊が盛んになり、「娘道成寺」はこの時期の代表作である。
 能の場合もそうだが、この演目も、伝説の後日譚として描かれる。すなわち、清姫の亡霊である蛇体によって焼き尽くされた鐘を再興した鐘供養の日、女人禁制の寺域に白拍子が現れ、僧たちに中に入れてくれたら舞をすると懇望。無垢な生娘から遊女など諸々の女の恋の姿態を演じ、やがて「恋の手習いつい見習いて・・」以下の「クドキ」を経て、少しずつ本性を現しながら、怨念の女へと変身、隙をみて鐘の中に入り込む。その白拍子の女こそ、あの蛇体という設定になっている。その華麗な数多くの変化が我々を存分に楽しませた後、最後はグロテスクな恐ろしい鬼女となって、鐘を踏まえて大見得を切る。(もっとも、この最後の場面は、ほかにもいろいろ演出があるようだ。)
 ただこの演目の無類の楽しさは、何と云っても、そうしたストーリーと離れて、春爛漫の桜の山を背景に、当代きっての立女形によって次々と演じられる種々の女の所作の華やかさ、美しさ、面白さであろう。
 これを唄う吉住慈恭も、この録音時には既に60歳を超えているにも関わらず、出だしの謡がかり「花のほかには松ばかり」以降、実に若々しくて艶麗。キビキビとして緩むところがない。これこそ、十八番の芸というものであろうか。

 最後に、慈恭師の芸に関する言葉で締めくくりたい。(吉住慈恭著「芸の心」毎日新聞社─1971)
「6つのころから長唄を始めまして、・・いろいろ考えたところが、第一に間(ま)につきるように思います。・・ところが、80も過ぎてしまってからは、声とか節とか間ではなく、どうも気分よりほかはないようです。上手にうたおうとかいう考えは捨てて、気分にいちばん気をつけています。うたうことが決まったら、その十日も前から、なるべくいやな気もちにならないよう心がけていますと、気もちよく芸が出来る、と悟ったわけなのです。・・ごく気もちよくすらりっと出た芸ならならば、必ずいいものだと信じているわけです。・・これは長生きにも通じるようです。」
当時90歳を超えて尚かくしゃくたる師の言葉だけに、説得力があるし、成る程と思わせるではないか。

 ジャケットの烏帽子を付けた妖艶な白拍子・花子の大首絵は、鳥居忠雅によるもの。 尚、最後に蛇足かもしれないが、老婆心ながら、長唄に限らずこの種純邦楽に接する場合、ある程度興味が出てきて慣れるまでの間は、歌詞はつねに手元において聴かれることを是非お薦めしたい。これは、能や歌舞伎を観るときも同様だが、少なくとも進行中の内容を十分に理解しておくことが、鑑賞の最低限の条件であるからだ。