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第12回 2003/05/01
裁判官はなぜ誤るのか
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書名:裁判官はなぜ誤るのか
著者:秋山賢三
出版社:岩波書店
出版年月日:2002年10月18日
ISBN:4−00−430809−7
価格:700円
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0210/sin_k92.html

1991年退官するまで、20年以上にわたって各地の判事(裁判官)として法曹界に直接携わった著者の、内部告発と、自省も含めた、現代における、刑事事件裁判のあり方を鋭く問題提起した著作。

一般には知られていない事実がまずある。日本では、刑事事件で起訴された場合、それが無罪となる確率はきわめて低い、むしろ皆無に近いということである。

「例えば1998年、99年度に第1審判決を受けた被告のうち、無罪になったのは0.1パーセント程度であり、有罪率は99.9パーセントにのぼる。つまり我が国では通常、起訴された時点で『被告人』とされた者は、『有罪』を覚悟しなければならないことになる。」

筆者は、必ずしも裁判の条件が同一でないため同一レベルでは比較されないことを条件としても、この数字の低さを、イギリスやアメリカ(無罪主張の場合、64パーセントが無罪判決、アメリカ12.8パーセント)と対照させ、その異常さに警鐘を鳴らす。この数字は、今日の日本人の一般感情を築き上げる。検察によって起訴され、マスメディアによってそれが大なり小なり報じられた瞬間に、その「被告人」は既に有罪扱いされる。だが市民には自己弁護を主張し、裁判を受ける権利が、「疑わしきもの(有罪であることが証明されないもの)は罰せず」の司法理念の下に保護されているのではなかったのか。

さて、もともと裁判官とはどのようにしてその職に就けるのか。まず、司法試験に合格すること。その後「司法修習を経たものの中から、最高裁が『適任』と認めたものが判事補に任官できる」。(任官できなかった、もしくは希望しなかった司法修習生は、その大部分が、検察官もしくは弁護士への道を歩む。最も、検察官には、司法試験合格という条件が必ずしも必須ではない。)この間の選択は、「客観的な」ペーパー試験でなされる。ペーパー試験で、理想と期待されている回答により多くのポイントを挙げることのできる能力は、恐らく20歳台前半であろう。こうして選ばれる裁判官の卵、判事補のほとんどが、実際の社会生活を経験したことのない若者によって占められる。

学業成績優秀だった若き判事補は、直ちに裁判機構に組み込まれていく。そしてその処理すべき案件は、夥しいものがあると著者は語る。

「大都市の裁判官は、民事事件を常時一人あたり平均250〜300件くらいは担当している。この『300件を担当』という場合、毎月20〜25件くらいの新しい事件(新受事件)があることが考慮に入れられる必要がある。この新受事件に見合う毎月20〜25件くらいの既済事件をその月に処理して初めて『担当300件』が維持される。<略>このことが、現実には裁判官に対してどのような仕事ぶりを強い、どのような生活を強要することになるのか。」

忙しすぎる裁判官は、しかし容赦なく勤務評定にさらされる。この勤務評定は、裁判を受けるもの、もしくは裁判行為を事務方で支えるものからなされることはまずありえない。裁判機構のトップからなされる評価は、いやおうなく「迅速な処理能力」に重点が置かれ、判決の内容が無視されることがないまでも、最重要ポイントとしてカウントされることは期待薄であることは十分憶測されることである。

2年間大都市部に新規任官した判事補は、その後3年間程度のローテーションで地方を赴任(転勤)し、5年を経て、判事とほぼ同格とみなされる職権特例判事補となる。さらに5年を経て判事となるわけであるが、一貫した「忙しさ」は、官舎と裁判所との往復だけの日々を強いることは想像に難くない。司法試験受験から司法修習、そして判事補としての生活という、この連続した、息詰まるような流れの中に、一般社会人としての生活感覚との深い乖離が発生することは論を待たないであろう。

さらに裁判官は、事件を合法的に判断することが、その仕事であるが、判断材料の収集活動に自分で携わることはない。検察側から提出される資料、弁護側から反証される材料を「判断」するだけである。こうして「わが国の裁判官は、弁護人として、被疑者・被告人と金網越しに面会した経験もなく、また、法廷で検察官や裁判官と対峙した経験もない。要するに当事者としての体験がなく、「法解釈についてはともかく、事実認定それ自体については、裁判官が『専門家』というわけではないことは広く承認されている」事実があるのである。

こうした裁判官の置かれた状況から、さまざまな冤罪が発生する温床が育つと筆者は論じ、冤罪事件に現役の弁護士として係わった、実例を挙げていく。ここでは、検察側の「でっち上げ」の数々と、「証拠隠し」が例証され、それに対する裁判官の冷笑的、官僚的な姿勢、一見理路整然とした検察からの求刑文への体験的な脆弱性が指摘される。

裁判官を人生のもっとも多感な時代に経験し、その後一転した弁護士生活の中で、初めて経験的に理解した「一般人」からみた裁判官の、あまりに官僚的な姿勢、また冤罪事件の弁護人としての行政上の問題点の深さ。こうした背景に本書は、日本の司法が「早晩、広範な国民一般からも見放されてしまうに相違ない」(あとがき)恐れを抱き、真の司法制度の改革に一石を投じようとした労作である。岩波新書という、読みやすい分類のシリーズに収められているが、提起されている内容は重い。