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ホーム/コラム/みだれ観照記/誰がヴァイオリンを殺したか

第11回 2003/04/01
誰がヴァイオリンを殺したか
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書名:誰がヴァイオリンを殺したか
著者:石井宏
出版社:新潮社
出版年月日:2002年3月20日
ISBN:4−10−390302−3
価格:1,500円
http://www.shinchosha.co.jp/book/390302/

かなり刺激的な表題である。現代に生きる私たちが、何の疑問もなく普通に聞いているヴァイオリンは、死んでいるのか。どのような意味においてそういえるのか。演奏楽器としてか、演奏技法においてなのか。そもそもヴァイオリンとはどのようなものであったのか。そして、まさに誰が殺したのか。この表題から次々にこうした疑問がわいてくる。既にヴァイオリンという楽器は今日存在し、ヴァイオリニストとして次々に若い演奏家が脚光を浴びているわけであるから、きっとこの著者は、相当な批判精神を持ってこの著作に取り組んだに違いないことが、予感される。

著者は、みずからの「あとがき」の中でこの本の主旨を明瞭にこう述べている。「誰がヴァイオリンを殺したか」。ここにおけるヴァイオリンという言葉は一つの象徴ないしは代表的な意味を持つもので、それは『音楽』という言葉で置きかえられるものでもある。

今日では、打楽器、弦楽器、管楽器とさまざまに語られる楽器の起源は、ひょっとしたら人間が音で感覚や感情を自身の体と声で表現しようとした、はるか太古にたどり着くかもしれない。それは、何らかの対象物をたたく、はじく、息を吹く(吸う)、ことによって、即時に可能であると憶測されるからだ。さて、筆者は、ヴァイオリンやその仲間の楽器の原初的特質を、こうした即物的(筆者は1次元的と呼ぶ)道具から、さらに進んで人間が工夫を加えた次元での音楽表現手段と捕らえる(2次元的発見)。それは、単に手で対象をはじく段階から一歩飛躍して、道具を使用して他の道具を「こする」ことによって感情を表現しようとするものであるからであると。従って、恐らく弓と弦をこすり合わせて音を表現する楽器の起源は、第1次的表現の楽器よりもはるかに新しいものであろうと筆者は推測する。

他の楽器より高度な次元に属するグループの中のヴァイオリン。そして、「どんな楽器でも少しずつ改良を重ねられて進歩していくものであり、ある日忽然と世に現れ、それ以後そのものの形や、機能が変わらないといったような楽器はこの世にはヴァイオリン以外には存在しない」ものなのである。その人の名を、16世紀イタリアの小さな町クレモーナの職人、アンドレーア・アマーティと推測する。このヴァイオリンの魅力、それは語源に遡り、「悪魔的に」人を魅了してやまない音色と表現力の多彩さであると喝破する。このヴァイオリンの魅力を歴史上最も余すところなく引き出し、全欧州を感動の坩堝に引き込んだ「ヴァイオリン弾きの中の最高の存在」こそ、イタリア・ジェノバ生まれの、ニコロ・パガニーニであったとする。パガニーニを描いた第3章「悪魔のヴァイオリン弾き“パガニーニ”」は、この著作の中で最も熱がこもり、読者を魅了してやまない。

さて、結論。こうした魅力ある楽器とその描き出す感動を呼び起こす芸術表現が、いつ、いかなる理由で、「殺されてしまったのか」。第4章「忍び寄る破壊の足音」、第5章「ヴァイオリンを殺したものたち」に、著者の悲嘆の叫びが綴られる。コンクールによって評価される画一性。この19世紀、20世紀を経て、進歩、改良、向上、改善の名前の下で、追及されてきた合理性。他者との区分の上でだけの表現方法の過大性。すべてのものの巨大化と喧噪化。最後の2章に述べられるすべての事柄は、奏でられた音楽が、時として耳を済ませて暗闇の中で静かにその芸術性に涙する感受性豊かな感性が、いかに破壊されていったのかを、歴史的に批判しようとしたものである。ここで著者は、現代的な生活のリズム、テンポ、感覚は、決して数世紀以前に既に持っていたものと比して、決して進歩したものではないと断言する。また、そうした人間が作り出したヴァイオリンの表現力と弾き手の弾き方の変化の中に、この楽器が人間にその本来持っていた芸術的感性に働きかける不思議な魅力のすべてを徐々に、徐々に失っていくさまを悲しみに満ちた目線で追っているのである。

クラッシクファンの方、必読。特にヴァイオリングループのお好きな方、是非お読みください。賛意を表さざるを得ない主張多々あり。歴史的な事実の徹底的な冷静な追求。読者に無知を恥ずべきこと多からんことを教えます。まことに良作である。