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第070回 2008/04/01
ゴスペルの女王、マヘリア・ジャクソンとニューポート

マヘリア・ジャクソン
米コロムビア CS−8071
マヘリア・ジャクソン『ニューポート1958ーマヘリア・ジャクソン』
曲目:アン・イヴニング・プレーヤー(夕べの祈り)/アイム・オン・マイ・ウェイ(私の道を)/ア・シティ・コールド・ヘヴン(天国と呼ぶ町)/ザ・ローズ・プレーヤー(主の祈り)/ディドゥント・イット・レイン(雨が降ったよ)/マイ・ゴッド・イズ・リアル(神はまことなり)/アイム・ゴーイン・トゥ・リヴ・ザ・ライフ・アバウト・イン・マイ・ソング(歌のように生きたい)/ザ・バトル・オブ・ジェリコ(ジェリコの戦い)/ヒズ・アイ・イズ・オン・ザ・スパロウ(主の眼は雀に注がれん)など 計12曲
マヘリア・ジャクソン(vo) ミルドレッド・フォールス(p) など
(1958年7月 ニューポートでのライヴ)

 地球温暖化が叫ばれる昨今とはいえども、大寒ともなると流石に底冷えがする毎日である。こうした季節、筆者にとって最も効果的な寒さ対策は、やや痩せ我慢かもしれぬが、例えば映画「真夏の夜のジャズ」のDVDなどを鑑賞しながら大いにホットな気分になることである。1959年制作になるこの映画は、その前年の58年の7月3日(木)から独立記念日を挟んで6日(日)までの4日間、言い替えれば、今からちょうど半世紀前に、アメリカ北東部の町、ニューポートで開催されたジャズ・フェスティヴァルの模様を収録・編集したドキュメント映画だった。この60年前後は、我ながら相当にジャズにハマっていた頃だったが、ともかく酷く寒い日にこの映画を観に行き、やはり大変ホットな気分で家路についたことを思い出す。
 ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル。世界で最も有名なこのジャズ音楽祭は、この地の煙草会社のオーナーであり、熱烈なジャズ・ファンだったロリラード夫人の熱意でボストンの大物興行師ジョージ・ウィインを担ぎ出すことによって1954年から始まった。
 アメリカでは、モダン・ジャズを中心にジャズ全般が最も熱かった時期に相当し、それに呼応してこの催しも年々隆盛の一途をたどることとなる。とくに58年の第5回大会は、偶々、上記のごとくバート・スターン(監督・撮影)により映画化されたこともあり、全世界にその存在を知らしめることとなったが、恐らく人気や演奏の質の点でも絶頂期だったのであるまいか。(筆者は、その後、60年代にアメリカ駐在となり、このフェスティヴァルにも何回か出かけたが、最早この映画のような熱気は感じられなかった)
 ところで、この映画、最初のジミー・ジュフリー・3による軽快な「ザ・トレイン& ザ・リバー」から始まり、セロニアス・モンクの「ブルー・モンク」、ソニー・スティット、アニタ・オディ、ジョージ・シアリング、ダイナ・ワシントン、ジェリー・マリガン・クォルテット、チコ・ハミルトン・クインテットの「ブルーサンズ」、ロックンロールのチャック・ベイリー、そして王様ルイ・アームストロングにジャック・ティガーデンなど実に多士済々による熱演が続くが、白眉はやはり、最後に歌われる女王、マヘリア・ジャクソンによる「主の祈り」を初めとするゴスペル・ソングではなかったろうか。
 彼女は、このフェスティヴァルでは2回出演し、1回目は初日の夜だったが、この映像に写っているのは、2回目の7月5日(土)の真夜中過ぎ、厳密にいえば、翌日に入ってからの収録である。映画でも観られる通り、折からの降雨にも拘らず天井のない真夜中の野外会場から立ち去る聴衆はなく、深夜のコンサートはアンコールに次ぐアンコールで予定の時間を遥かにオーヴァーしたという。
ちなみに、このニューポートという町は、映画でも最初にヨット・レースの一こまが出てくるが、ボストンのあるマサチューセッツ州に南接するロードアイランド州南端に位置する港町である。偶々、この年は世界最高峰の国際ヨット・レース、第18回目のアメリカス・カップがニューポート沖で開催されていたが、この1870年に始まった世界最古のスポーツ・イヴェントにおいてアメリカ・チームは、第一回以来、破竹の全勝無敗記録を更新し続けており、人気はいやが上にも高まっていた。あらゆるスポーツで最も費用がかかるといわれるこの競技で圧倒的な強みを発揮していたアメリカは、まさに「富と力」で世界を圧倒していた。この地は夏の避暑地として有名だったが、そんなイヴェントもあって、この年は例年になく観光客の数も多かったのである。
 さてこの港町、200年以上前の植民地の時代には、捕鯨船の寄港地として有名だったそうだが、黒人詩人ラングストン・ヒューズによれば、「黒い金(ブラック・ゴールド)」すなわち奴隷の貿易で大いに栄えた町でもあった。「黒い金」は、アフリカからニュー・イングランドの奴隷船によって最初この地に連れてこられ、他州や西インド諸島に売られていった。この貿易のおかげで、ニューポートには巨大な富が築かれ、当時の超豪壮邸宅は、今でも町のあちこちで見ることが出来る。そうした曰く付きの場所で、黒人の音楽、ジャズの祭典が開催されるというのも、因縁とはいへ何とも皮肉な現象といえなくもない。
 さよう、マヘリアが歌って人々を感動させて止まなかったゴスペル・ソングも 元をただせば、この奴隷制度の盛んだった時代へと行き着くこととなる。
 この地アメリカに無理矢理に連れてこられた奴隷たちは、白人たちによって強制的にアフリカの宗教や文化を破棄させられ、替わりにキリスト教が与えられる。最低限の生きるだけの生活を強いられた黒人奴隷たちは自身の苦しみや不安を神に訴え救済を求めたが、その願望を歌に託して表現したのが黒人霊歌(ニグロ・スピリチュアルズ)である。神による救済を意味するゴスペル(福音)からゴスペル・ソングとも呼ばれた。いわば黒人によって歌われる教会音楽のことであるが、これらの歌は白人の賛美歌をベースにアフリカ音楽特有の音階やリズムを加味して作られた。その後、コンサートなどで歌われるような洗練されたものを黒人霊歌、黒人教会(とくにホーリネス派教会)内部でより自由なアクの強い、ときには歌というより叫びをゴスペル・ソングと呼んで区別するようになる。
 これら黒人霊歌やゴスペル・ソングは、非宗教的なブルースとともに、現在、世界的に流行し人気のあるブラック・ミュージックといわれるジャンル、例えば、リズム&ブルース(R&B)、ドゥー・アップ、モータウン、ソウル、ファンク、ブラック・コンテンポラリー(ブラコン)、ディスコ・サウンド、ヒップ・ホップ/ラップなどの母体であり、ルーツでもあった。
 やがて、1863年、大統領リンカーンの奴隷解放宣言により、立前上は黒人も人間として認められるようにはなったが、実態は、厳しい人種差別体制が厳然と存続し続けた。法律上も漸く対等と認められるようになったのは 更にそれから100年を経た1964年の新公民権法の成立を待たなければならなかった。その長い間、当然のことながら、白人と黒人の間では激しい対立、戦いが繰り広げられる。
 マヘリアも68年に凶弾に倒れた公民権運動の主唱者、マーティン・ルーサー・キング牧師とともにこの運動に加わった一人であり、キング牧師の告別式では牧師を悼んで深く感動的な歌唱を捧げた。歌は牧師の生前の願いだったドーシーの名曲「プレシャス・ロード(貴き主よ)」であった。

 マヘリア・ジャクソン。1911年、ルイジアナ州ニューオリンズの黒人ゲットーで生まれる。祖父母はいずれも奴隷だった。父は昼間は港湾労働者として働いたが、熱烈なクリスチャンで日曜日には教会で臨時牧師を勤めた。マヘリアは5歳のころから父の教会で歌うが、27年、16歳のとき、看護婦を志願して当時ゴスペル・ソングの中心地、シカゴへと旅立つ。毎週日曜日に通ったグレーター・セイルム・バプティスト教会で抜群の声量と歌の上手さが認められて、ゴスペル・グループ、ジョンソン・ブラザーズのメンバーとしてプロ・デビュー。37年には米デッカにソロとして初レコーデイングをし、全米での知名度も高まっていく。その間、コンサートにも出演したりするが、彼女の転機は、46年、ベス・バーマン女史の経営するニューヨークの小さなレコード会社、アポロ・レコードと契約してからであろう。ここで吹き込んだ曲は、どれも素晴らしかったが、特に48年収録の3枚目「ムーヴ・オン・アップ・ア・リトル・ハイアー」は、ミリオン・セラーとなり、マヘリアは名実共に「ゴスペルの女王」となった。名曲「ジャスト・オーヴァー・ザ・ヒル」(あの丘のすぐ向こうに)や「ハウ・アイ・ゴット・オーヴァー」(どうやってあの苦境を乗り越えられのか)などもこの時期のもので、彼女はまだ30歳代であり、力がみなぎっていた頃の録音だった。54年、アポロからCBSに移籍し、60年代においても、なお活発な音楽活動を続けた。61年には友人でもあったケネディ大統領の就任式で歌っている。
 71年に来日、同年のドイツ公演を最後に引退。翌72年1月、心不全のため、第二の故郷、シカゴで死去。享年60歳だった。葬儀は、シカゴと故郷ニューオリンズで行われ、遺体はニューオリンズ近くの共同墓地に埋葬された。

 さて、今回は「ニューポート1958ーマヘリア・ジャクソン」を取り上げたい。彼女にとっては2度目の出演となった1958年7月開催のニューポートでのライヴ・レコーディングである。収録は、7月5日(土)深夜(厳密には翌6日)、名司会者ウィリス・コノヴァーの紹介で最初の曲「夕べの祈り」から始まる。伴奏はマヘリアにとって常に最高のパートナーであったミルドレッド・ フォールスのピアノにオルガン・ベース奏者が加わる。神への祈りの代表的ゴスペル・ソングであり、彼女が静かに歌い始めると聴き手の気持がぐっと引き締まるから不思議だ。続いてマヘリア自作の「私の道を」、黒人霊歌「天国と呼ぶ町」、有名なゴスペル作者で親友トーマス・ドーシーが作った2曲「たやすいこと」と「神の国を歩もう」(映画ではこの曲が最初にくる)が歌われた後、前半最後の曲が彼女の愛唱歌、映画では最後に歌われる「主の祈り」になる。マロット作の名曲だが音楽的感動の深さという点では圧巻であろう。
 後半の最初は女性ゴスペル作家ロバータ・マーティンの「雨が降ったよ」からのスタート。折からの雨の中、物凄い拍手と歓声に答えて、ステージのマヘリアが短い挨拶をする。「皆さんは、私をスターのような気持にさせて下さいます。雨の中で皆さんはずっとお座りになって私の歌をおききになりたいのかどうか、とにかくもっと歌うことにしましょう・・」(日本盤ライナー.ノート所収)。続く「神はまことなり」「御手に世界を」と賛美歌から作られたゴスペル・ソングが続き、再びドーシーの名曲でマヘリアの愛唱歌「歌のように生きたい」が聴きもの。ポップ・ゴスペルともよばれてジャズやポップスでも歌われる有名な「ジェリコの戦い」を経て、このアルバムの最後はロバータ・マーティンの「主の眼(まなこ)は雀に注がれん」で終わる。「主の眼が小さな雀に注がれるように、主は私たちを見守っていてくださる。私の魂は幸せであり、自由だから私は歌う」といった趣旨の曲であるが、最後を締めくくるべき絶唱であった。
 宗教的な深さと強さ、神への畏敬と歓喜の叫び、声量豊かな低い音域から、「神はまことなり」のような高音域の何とも言えない美しさに至るまで、その響きは圧倒的であり、しかも抑制された感情表現がじつに素晴らしい。評論家アヴァキャンも書いているごとく、「世界最高のゴスペル・シンガー」であることを我々に納得させ、且つ十分に実感させる演奏であった。

 最後にゴスペル・ソングといっても 勿論 このマヘリアを初め、ウイリー・メイ・フォード・スミス、マリオン・ウイリアムズに代表されるような女性によるソロばかりではない。むしろ歴史的には、サリー・マーティン・シンガーズ、ロバータ・マーティン・シンガーズ、ウォード・シンガーズなどのゴスペル・グループ、キングス・オブ・ハーモニー、ソウル・スターラーズなどのクォルテット(四重奏)とか クワイア(聖歌隊)が主流だった。またゴスペル・ソングの全盛期は、マヘリアの全盛期でもある1945〜60年とする説も多い。しかし、現在でも聖書をベースにした音楽のジャンルは一般的にゴスペルと呼ばれており、例えば1970年、テキサス生まれのスーパースター、カーク・フランクリンなどは、キリスト教的テーマをラップにのせて大ヒットを飛ばしている。中でも「ホワイ・ウィ・シング」という曲など、マヘリアが最後に歌った「主の眼は雀に注がれん」が一部に引用されているが、R&Bとコンテンポラリー・クリスチャンの両部門で断トツのトップとなり、100万枚以上を売り上げた。ほかにソウルを取り入れたゴスペル・ソウルとも言うべきグループ、テイク・シックスの例などもそうだが、各種ブラック・ミュージックが逆にゴスペルに投影されて、ゴスペル・ソング自体も増々多様化されつつ変化しているのが現状のようである。

 ここで、ニューポートでもマヘリアが歌ったドーシーの「歌のように生きたい」の歌詞を掲載してこの稿を締めることとしたい。

「歌のように生きたい」(トーマス・A・ドーシー 作詩)
わたしはわたしが歌でうたう通りの人生を生きたい
いつも行く末をさし示しながら 正しく生きたい
群衆のなかにいても ひとりでいても 街頭でも 家のなかでも
わたしはわたしが歌でうたう通りの人生を生きたい
毎日 どこでも あるいは激しい往来でも
人々はわたしを監視し 汚そうとし ある者はわたしを馬鹿にするかもしれない
しかしわたしは構わない
日曜日は教会に行って一日をそこで過ごす
すべての愚弄を忘れ 人々のせわしない目から落ちつきを取り戻せるのだ
お金のためでも 名誉のためでもなく 唯イエスへの愛のために
わたしは真っすぐに歩みたい 真っすぐで狭いみちを
イエスは洞窟の中でわたしに すべての罪を洗い清めて下さるといわれた
(日本盤 ライナーズ・ノート所収の英詩から意訳)

 この曲は、ゴスペルの優れた作詩・作曲家であったピューリスト、トーマス・ドーシーの時には相容れない世間の目に対し偽らざる自身の心境を表現したものだが、同時にマヘリアの目指した境地でもあったのだろう。

ジャケットのイラストは、ボブ・パーカー。ステージ上のマヘリアをスケッチしたものであろう。

P.S. 今年(2008)は、アメリカでは、4年に一度巡ってくるビッグ・イアー、大統領選挙の年である。中でも興味の対象は、ブッシュ政権が8年間続いた共和党に代わって今回有利が伝えられる民主党候補に一体誰がなるかであるが、現在、女性初の大統領を目指すヒラリー・クリントン候補と黒人初を目指すバラク・オバマ候補の2人による一進一退のデッドヒートが繰り広げられている。通常は大勢を決するといわれた ”スーパー・チューズディ”が終わった段階でも、まだまだ予断を許さない激戦状況が続いている。
 対黒人差別問題は現在のアメリカでも相変わらず大きな社会問題ではあるが、64年の新公民権法の成立以来、早や44年。当時アメリカで過ごした筆者など、その後のこうした大きなうねりには中々ついてゆけず、隔世の感を拭えない気持で、唯々、大統領予備選挙の成り行きを固唾をのんで見守るばかりである。
 その結果がどうであれ、アメリカも着実に変わりつつあることだけは確かであろう。


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