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第067回 2008/01/01
大晦日の定番落語「芝浜」と名人・3代目三木助の芸

桂三木助

 

日ポリドール MF4007

桂三木助(3代目):落語『芝浜』と『ざこ八』
(録音:1954年12月30日(芝浜)NHK音源)

 


 熊という魚屋、江戸前できっぷはいいが、ともかくノンベイでどうしよもない。女房が散々意見してもまったく云うことを聞かないし、金があれば朝から酒びたりで働かない。ある朝、いつもように女房に起こされ、久しぶりに買い出しに出かけるが、時刻を間違えてしまい早すぎたので仕方なく浜に行くと、そこに打ち上げられた何と82両も入った汚い財布を見付ける。
 家に飛んで帰った熊、もう働く必要もないんだと残り酒を飲み干して寝てしまう。さて、ぐっすり寝て夜が明けると再び女房に揺り起こされ、早く買い出しに行けといわれる。熊は夜中に浜で拾った大金があるから、もう行かないというと、女房に、なにを寝ボケけてるんだい、この人、夢でも見てるのではないかと意見され、「そんな財布知らないよ、あまりに長い間、貧乏暮らしばかりしてるから、財布を拾うなんて情けない夢を見るんだ」とこんこんと諭されるこの場面は聞き所であろう。
 流石にいたく感じた熊は、以来反省して酒をピタッと断ち、丸2年間、人が変わったように真面目に働いた結果、そこそこの身代も出来て、表通りに店が出せるようになった。その年の大晦日、女房が奥に仕舞ってあった82両の財布をソーっと出して見せ、あの時は夢にしてしまったが申し訳ない。もしそのまま金を使ってしまえば、罪人になってしまう。大家と相談した上でお上に届けたが、1年経っても落し主が現れないということで、拾い主に下げ渡されたと顛末を説明する。熊は涙を流して感謝するが、女房から「あんたもこれほど我慢したのだから、折角の大晦日だよ、ゆっくりお酒を飲んだら」と大好きなツマミとともに酒をすすめられるのだが、落ちがいい。「酒はよそう、この金がまた夢になる」

 筆者は、三木助の演じたこの落語を1954年(昭和29年)の暮れ、NHKのラジオで聞いた。聞きながら涙が出て止まらなかった記憶がある。これこそ芸の力というものであろう。この「芝浜」で三木助は確かその年の文化庁芸術奨励賞に輝いた。もう50年以上前のことである。
 以来、三木助が好きになり、機会あるごとに聞きに行くようになった。「芝浜」も何回か実演で聞いている。

 大体、落語に出てくる大方の夫婦は、間抜けな亭主に利口な女房と相場が決まっている。例えば、「お神酒徳利」「あわびのし」「八五郎年始」「心眼(しんがん)」「子別れ」「猫久」「桃太郎」などなど。
 しかし、「芝浜」の女房は、一回り上手の賢妻である。決して武家の妻の理想とされた堅苦しい良妻賢母型というのではないが、表面上はあくまで亭主を立てながら、うまい具合に操縦して一人前の男に仕立て上げる。作家の加太こうじ氏の言われるごとく「そのやりかたが、いかにも誠実で人情味にあふれている」のである。
ちなみに、この「芝浜」という落語、名人・三遊亭円朝の作と伝えられたが、元々あった噺を円朝が補訂したという説が有力である。歌舞伎の世話狂言にもなって大正以降、名優6代目菊五郎はこの亭主役を得意にした。

 そして、多くの落語が作られた江戸後期以降、封建道徳が支配し男尊女卑が一般的だった世に、こうした多くの明るく人間味にあふれた利口な女房たちを次々と生みだした落語というジャンルの素晴らしさを改めて感じる。世の中の倫理観から自由に飛翔し、常に時代を先取りする新しさにこそ落語の堪らない魅力があった。

 もともと落語は江戸中期、元禄のころ、街頭に立って辻噺をする大道芸人によって始められた。京都の露の五郎兵衛、大阪の米沢彦八、江戸の鹿野武左衛門といった人たちだった。彼らのネタは、その少し前、寛永年間、京都にいた安楽庵策伝の「醒睡笑(せいすいしょう)」などが使われた。例えば、武左衛門など、その風刺が効きすぎて幕府の咎めるところとなり、伊豆に配流されてしまう。
 彼らは何れも大道芸人であったが、天明6年(1786)江戸向島の座敷で初めて落し噺の会を開いたのが、立川焉馬(たてかわえんば)だった。元々は大工だったが、話がうまく、自身狂歌なども作った。天下泰平の世、焉馬の落し噺は大変な人気となったが、これまた幕府から何回も差し止められている。従って、一般的には この立川焉馬をもって落語の祖とするが、彼の噺はみな短かった。同じ頃、石井宗叔(そうしゅく)という医者が、自分の仕事をそっちのけで主に座敷で長い噺をしてこれも評判になった。焉馬にしても、宗叔にしても彼らを好んで聞いた連中は、町人の中でもヒマと金のある階層で通人とか粋人と言われる連中が多かった。焉馬は、文政5年(1822)80歳で亡くなり、宗叔もその少し前に亡くなっている。

 この焉馬から少し遅れて現れ、江戸下谷の稲荷社境内に初めて常打ちの寄席を開き、焉馬に対抗したのが、三笑亭可楽だった。元々は、櫛職人だったが、自身、作噺を良くし、しかも名人といわれるほど噺が上手かった。客に3つの題を出させ、即席で一つの噺にするいわゆる3題噺で大人気を博した。客の階層は、職人や小商人が多く、より庶民派だった。文化文政期に活躍して天保4年(1833)に亡くなったが、大勢の弟子を養成してその後の落語繁栄の基礎を築いた。

 先の宗叔も後に医者をやめて可楽の門弟になっているが、その門弟には道具を使用して初めて怪談噺を始めた初代林家正蔵、鳴物入りで芝居噺を始めた初代三遊亭円生、音曲入りの噺を始めた朝寝坊むらくや船遊亭扇橋、人情噺が得意だった初代古今亭志ん生など多彩だった。
 やがて落語は大阪でも盛んになる。初代桂文治以下、桂を名乗る落語家たちは皆 大阪が元祖である。
 そして明治の世。江戸幕府に替わって薩長土肥を中心とする藩閥体制による権力集中がすすむ中、江戸期を通して敏感に時代に反応した落語にも影響が出てくる。ここに現れたのが明治の天才・三遊亭円朝だった。落語家円太郎の子として天保10年(1939)生まれ。7歳から高座に出て17歳で円朝を名乗る。
 それまで使用していた道具類の使用を止め、手ぬぐいと扇子一本で、仕草も控え目とする素噺を旨とした。特に創作では非凡な才能を発揮し、ほとんどの場合自作を演じた。「牡丹燈籠」「真景累ケ淵」「乳房榎」「安中草三」「塩原多助」「西遊記」など膨大な数に上る。明治33年(1900)61歳で他界するまで、実力・人気ともに圧倒的な存在だった。対抗馬の柳派からは、柳亭燕枝(後の談州楼燕枝)や3代目柳橋(後の春錦亭柳桜)などの活躍もあって明治から大正にかけて落語界は空前のブームにわいた。

 例えば、円朝門下からは、円朝の四天王といわれた3代目円生、円馬、円橘、円喬(後の4代目円生)、さらには2代目円遊、新朝、円左、円右、小円朝などといった優秀な人材を輩出。落語家の数もさることながら、寄席数も明治後期、東京市内だけで120軒以上という盛況だった。
 しかし、やがて昭和に入るや、映画の隆盛とともに、第二次大戦を前に軍国化の波にのって講談や浪花節が重んじられ、落語は急激に退潮する。生き生きとした自由な庶民の人間模様を描写する落語が疎んじられたのは至極当然のことであった。戦時中は、禁演落語50種が制定されたりして増々活力を失っていった。

 戦後漸く、全てが解禁されて復興の兆しが見え始めたころ、戦前からの名人たち、古典中心の「落語協会」所属では、文楽、志ん生、円生、正蔵、小さん、そして三木助(後に加入)、新作中心の「芸術協会」では、柳橋、小文治、今輔、可楽、フリーでは、金馬、金語楼を初めとする噺家たちによって昔日の面影も少しづつ取り戻されていく。

 この「芝浜」を演じる3代目桂三木助。明治34年(1901)、東京は湯島天神下の生まれ。代々江戸っ子である。本名、小林七郎、伯父が落語家で4代目春風亭柳枝だった。大正8年(1919)、伯父の弟子に当たる柏枝(後の6代目春風亭柳橋)の門下となり、やがて昭和2年(1926)、柳昇のとき真打ちとなる。三木助と長年の親友で、「亀戸の先生」こと作家、正岡容氏によれば、かっての三木助は「小味で軽妙なサビのきいたまるで握り鮨のような味の落語家」だった。ただ生来飽きっぽくて辛抱が足らない。ために何べんも落語家を止めては、舞踊家になったり(踊りは名門花柳寿兵衛門下の本格派名取りで花柳太兵衛)、太神楽一座に入ったり、さらには幇間になったりした。その上、無類のモートル(勝負事)好きで、博徒仲間では「隼の七」と異名をとるほどの腕前だった。
 要は多才だったが飽きっぽかったということだろうが、宵越しの金どころか、いつも借金で首が回らない状態だった。やがて東京から逃げるように大阪へ。関西落語の大御所、2代目桂三木助のもとを尋ね、芸名を三木男に変えたりする。

 ところが戦争が終わって世相も落ち着くと、何故か、それまでの浮き草のような生き方を話芸のためにピタリと止めた。一説には、踊りの弟子で24歳も年が離れた若い女性、仲子と相思相愛となったが、彼女の親からとても博打うちの元には嫁に出せない、名跡三木助を継げるような立派な芸人になったら、という条件に一念発起したともいう。昭和25年(1950)には、約束通り3代目三木助を襲名。まさに「芝浜」の主人公、熊を地で行くような話である。もともと勘もいいし頭の回転も抜群に速く、最初の師匠6代目柳橋のすすめもあって、その頃、NHK の人気番組「とんち教室」のレギュラー・メンバーとなり、やがて人気も全国的となる。
 29年には、落語界で初めて文化庁後援の芸術祭奨励賞を受賞。そのときの演目がこの「芝浜」だった。ちなみに、この同じ年、芸術祭賞に輝いたのが「素人鰻」を演じた桂文楽師で、これも落語界では初めての快挙だった。文楽は、当時三木助が最も尊敬する古典落語の名人だった。

 晴れて仲子と結婚。東京田端に居を構えて、一男一女を得、順風万帆におもえた矢先、胃がんのため36年(1961)、58歳で急逝する。芸風は一言で粋でイナセ、その描写も非常に写実的で緻密、およそ泥臭さとは対極にある芸だった。

 このレコードのB面に収録されているもう一つの演目が「ざこ八」で、これも三木助の十八番だった。

 上方に行っていた鶴吉が、10年振りに江戸に戻ると同じ町内の大店雑穀商「ざこ八」が人手に渡っていた。理由はざこ八の一人娘お絹の婿になるはずだった鶴吉が、婚礼の直前に行方を眩まし、ショックを受けたお絹が鶴吉とよく似た外の男を婿に迎えたが,この男とんだ食わせ者で、道楽に明け暮れて身代をつぶした上、花柳病にかかって死んでしまう。
 病気を移された上、住む家もないお絹は乞食同然の暮らしをしていた。じつは、鶴吉が出奔した理由は、悪友から「小糠三合持ったら養子に行くな」の喩えもあるのに、お前は意気地なしだ言われたのに反発したからだったが、甚く反省した鶴吉、今度こそお絹の婿になり、懸命に働いて遂にざこ八を再興、お絹の病気も直してやるといった人情話。

 じつは、この後も噺は続くのだが、これが面白い。大店のおかみに落ち着いたお絹が、頻りに”先の仏”と死んだドラ養子の亭主のことばかり言うので、鶴吉堪り兼ねて怒り出す。夫婦喧嘩のなかにわって入った魚屋が、お絹に対して「先の仏のことばっかしいってるから今の仏が怒っちゃう」・・。
 単なる美談に終わらせず、女性心理の不可解さというのか人間のどうしようもない業みたいなものも感じさせる噺でもある。三木助が「人形買い」などと共に、大阪で先代から直接教わった所謂上方もの。自身で江戸前に直したものだが、これも大阪に逃げていった三木助本人を彷彿とさせるような出し物である。当時は三木助以外にやり手はいなかった。

 三木助の十八番といえば、上記の「芝浜」「ざこ八」「人形買い」以外にも、「たがや」「大工調べ」「猫の忠信」「化物つかい」などがあったが、どれも名品という感じだった。
 先ずまくらがフレッシュで何とも洒落ていた。例えば、「芝浜」の場合。「翁(芭蕉)の句に ”明けぼのや しら魚白きこと一寸” てな一句がありますが」から始まり、まだ明けきらない浜辺の情景や磯の匂い、東京下町の冬の風物詩だった白魚売りの話などが語られ、知らず知らずのうちに聴き手は噺の舞台である時代や場所に連れてゆかれる。また本題に入ってからも、こうした情景描写とともに人物描写が的確で肌理が細かい。したがって例えば「芝浜」では、淡々とした話の進行のなかに夫婦間に漂う情感みたいなものが実に巧みに表現されていた。

 また高座では、よく噺のあと踊りをやってくれたが、流石、本職だっただけに堂に入ったもの、とても落語家の余興といった代物ではなかった。立ち居振る舞いがピシッと決まっていて、それだけでもお金が取れるような芸で、これも楽しみの一つだった。
 弟子筋では、9代目入船亭扇橋・8代目春風亭柏枝(後の7代目春風亭柳橋)・林家木久扇等、多彩だった。

 3代目三木助の死後、一人息子盛夫(親友の5代目小さんの本名から名付けた)も成人し、その小さん師匠の下で修行、やがて4代目三木助を継ぐことになるが、2001年1月、若くして自殺してしまう。享年43歳。親友だった小朝とともに落語界の将来を担う若手と嘱望されたいただけに残念な事件だった。「三木助」という名跡の重圧などによる鬱だったとういう説もある。

 今は、娘の息子、即ち、3代目にとっては孫にあたるが、祖父の大阪時代の芸名桂三木男を継いで修行しているという。戦前の名人たちが逝ってしまって、暫く落語界も低調だったが、今や再び落語ブームも復活しつつあるようだ。
 そんな中、三木男が一体どんな噺家になっていくのか、プレッシャーをかけない様静かに見守っていきたいものである。
 ジャケットは、文字のみによるものだが、デザインが酒井治、タイトルの書は、落語文字の橘右近である。


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