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第056回 2007/08/20
真夏のヴェネツィアの夕陽の中 ー 「聖母マリアへの祈り」

56

日アルヒーヴ  POLG-1018 (LD)
クラウディオ・モンテヴェルディ『聖母マリアの夕べの祈り(晩課)』

A.モノイオス/M.ペンニッチ(S)M.チャンス(CT)M.タッカー/N.ロブスン/S.ナグリア(T)B.ターフェル/A.マイルズ(Bs)
モンテヴェルディ&イングリッシュ・バロック・ソロイスツ/ジョン・エリオット・ガーディナー(指揮)

(録音:1989年5月 ヴェネツィア、サン・マルコ大聖堂でのライヴ )

 

 


 クラウディオ・モンテヴェルディ(1567‐1643)、17世紀イタリアを代表する大作曲家。クレモナで理髪外科医の長男として生まれる。母はクラウディオが9歳のとき亡くなり、父はその後2度結婚して、さらに2男1女をもうける。彼は少年時からこの地の大聖堂の楽長インジェリエーリから音楽教育を受け、15歳の頃にはモテットやマドリガルの作曲に天分を示した。マドリガル集第1巻と2巻はクレモナ時代の作である。
 90年、22歳のとき、マントヴァのヴィンチェンツォ1世の宮廷にヴィオール奏者として雇われる。ここでは弦楽奏者としての仕事とともに毎週開催の音楽会のためにマドリガルの作曲も行い、次第に宮廷内で頭角を現すとともに指導的役割を担うようになる。
 99年32歳のとき、宮廷歌手クラウディア・カッタネイスと結婚。1601年、宮廷の楽長に就任。マントヴァでは、このころが公私ともに絶頂期で、主君に従って、オーストリア、ハンガリー、フランドルなどを旅行。とくにフランドルでは、この地でも盛んだったマドリガルの影響を受ける。マドリガル集4巻と5巻を完成。
 マドリガルとは世俗的多声歌曲のことだが、もともと14世紀イタリアで歌われた2声‐3声のものが、16世紀フランドル楽派によって発展、16世紀後半から17世紀初めにかけてイタリアのマレンチオ、ジェズアルト、そしてモンテヴェルディによって頂点に達する。このころになると、声部数は飛躍的に多くなり、さらに半音階なども用いられて劇的表現も大いに高められ、やがて独唱声楽曲へと移行していく。16世紀後半から17世紀にかけてマドリガルは英国にも波及し、W・バードらにより英語によるものも作られた。
 1607年2月には、モンテヴェルディによって歴史上初めての本格的オペラ「オルフェオ」が完成・上演された。この名作オペラの誕生も長年の劇的マドリガルの作曲によって培われた技巧や構想の当然の発展的帰結と言えなくもない。
 マドリガル集5巻の序文には作曲者によって「言葉は音楽の主人であって召使いではない」という有名な言葉が記されているが、彼の音楽の場合、先ず言葉があって、その言葉の意味をいかに劇的に表現するかに注力されるのである。
しかし、この同じ年の9月、愛妻クラウディアが2人の男の子を残して病死する。その後、彼は生涯再婚することはなかった。翌08年、主君の長男フランチェスコの結婚を記念してオペラ「アリアンナ」を作曲・上演、これが大成功を収めた。しかし、妻の死と超多忙がたたってノイローゼとなり、それから1年以上クレモナの老父のもとに戻って滞在静養することになるが、このときマントヴァを去る決意を固めたといわれる。1610年、自作6声のミサ「イン・イッロ・テンポレ(その時に)」と宗教曲の名作「夕べの祈り」を携えて自身と長男の新しい職を求めてローマへと赴き、この2作品は当時の皇帝パウルス5世に献上された。ただその献上が就職活動のためのものだったのかは不明である。
彼は再びマントヴァに戻って仕事に復帰している。しかし12年に主君が死去、その後継者となったフランチェスコによって彼は解雇された。
 翌13年、ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂の楽長マルティネンゴが死に、その後任にモンテヴェルディが任命された。しかし、この任命に当たっての経緯も明らかではない。
 ヴェネツィアでは、仕事柄、かなりの数の教会音楽を作曲するが、他方、マドリガルとともに各地の宮廷の依頼によって多くのオペラを作曲する。しかし、現在残されているのは僅かで、晩年の作ながら、「ユリシーズの帰郷」(1641)や「ポッペアの戴冠」(1642)などが知られるのみ。以降18世紀に入ってナポリに拠点が移るまでの間、ヴェネツィアはオペラの中心地となり、モンテヴェルディは、その代表的作曲家となった。その間、次男の逮捕、ヴェネツィアでの疫病の大流行など幾多の不幸にも襲われたが、1643年、故郷クレモナとマントヴァを旅行したのち、同年11月に死去。享年76歳だった。結局、彼は30年間も、このヴェネツィアでサン・マルコ大聖堂楽長の要職にあったことになる。

 今回、取り上げるのは、マリア被昇天の祝日、すなわち8月15日に執り行われる、一般的には「夕べの祈り」と呼ばれる儀式のための音楽であるが、正式には、聖務日課の中の「晩課」が正しい。この作品は、17世紀宗教音楽では最大の傑作とされ、イタリア・バロック初期様式を代表するカトリック教会の音楽として、バッハの「ロ短調ミサ」とも肩を並べる宗教音楽の最高峰といわれる。
 聖務日課というのは、ミサと並んでカトリック教会でのもう一つの重要な典礼儀式であるが、1日を3時間づつ8回の時課に分け、その各々の時課に僧たちが聖堂に集まり祈りなどの儀式を行うこと。このうち夕刻に行われる晩課は一日の恵みに感謝する最も荘厳な儀式であり、祝祭日にはとくに盛大に行われる。ちなみに、普通の教会では、祝祭日にこの晩課のみしか行わないところも多い。「晩課」に次いでは「終課」と「朝課」が重要。
 ともかく、この曲は、1610年ヴェネツィアで出版され、ローマ法王パウルス5世に献呈された。就職運動の一環とも言われるが、先にも述べたように、それまでのマントヴァ宮廷から何故か解雇され、その1年後にヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂の楽長に任命されるのだが、任命されるまでの経緯や因果関係は明らかではない。
 また就任披露としてこの曲がサン・マルコ大聖堂で演奏されたという説はあるが、それも確証はない。
 さてこの作品、最初の部分には、オペラ「オルフェオ」冒頭のファンファーレが使用されている。詩編による合唱と独唱、重唱が続き全14曲から成り、最後はマリア賛歌「マニフィカート」の合唱で締めくくられる。「マニフィカート」は2曲作られた。本来形式的には、このようにレスポンソリウムから始まり、数編の詩編とアンティフォン(詩編の前後に付ける歌)、讃歌「マニフィカート」などで構成されるのが一般。しかし、この曲では、アンティフォンの代わりに「コンチェルト」が、讃歌の前には「ソナタ」が置かれ、構成も斬新、しかも華やかな効果を上げている。何と言っても、この宗教曲には、マドリガルやオペラ同様、言葉の情緒を表現する強いドラマ性があり、これこそが現代人にも十分通用する要素であろう。そして若いころ習熟したルネッサンス風ポリフォニー音楽から出発したモンテヴェルディにとって、モノディー様式によるマドリガル、オペラ、教会音楽を相次いで集大成させつつ、バロック音楽の先駆け的存在となった記念碑的作品でもあった。

 当演奏は、1989年、ガーディナーによるモンテヴェルディゆかりのヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂におけるライヴ録音である。自身率いるモンテヴェルディ合唱団の創立25周年記念の催しでもあり、英国BBCテレビにより放映された。
 ガーディナーには、同じく古楽による旧録音もあり、これも名演、ほかにも、筆者の好むコルボ指揮など幾多の名演がある中、やはりここでは、このエポック・メイキングなライブ演奏を取るのが至当であろう。

 ガーディナーのモンテヴェルディに対する想い、就中、この「聖母マリアのための夕べの祈り」に対する強い想いは、少年時代にこの曲を聴いて以来、増々強まるばかりで、自身設立した合唱団にモンテヴェルディの名前を冠するほどであった。
 1943年、英国南部のドーセットシャー州生まれ。幼時より本格的に音楽を学び、61年、ケンブリッジ、キングス・カレッジに入学。64年に、このモンテヴェルディ合唱団を創設。初演は大学の礼拝堂で、その憧れの「夕べの祈り」を演奏。また67年には、ロンドンのエリー聖堂で自身が改訂した「夕べの祈り」を試演してプロの間でも高い評価を受けた。いわば、彼の音楽体験は、この「夕べの祈り」とともにあったといっても過言ではない。68年、ピリオド楽器によるモンテヴェルディ管弦楽団を設立。77年、同管をイングリッシュ・バロック・ソロイスツ(イギリス・バロック管)に改組した。
 そして1989年、ガーデイナーとモンテヴェルディ合唱団が、その25年にわたる演奏活動の集大成発表の記念すべき場所として選んだのが、作曲者ゆかりの地、ヴェネツィアのサン・マルコ大聖堂であった。11世紀から建て始められたビザンティン様式による名バジリカ建築は、とりわけ内部音響の素晴らしさで知られ、ジョヴァンニ・ガブリエリらの多合唱音楽を鳴り響かせてきたし、確証はないものの、モンテヴェルディにより8月の聖母被昇天の祝日には、この「夕べの祈り」が演奏されたことは十分に考えられる。残響が豊かで複雑な構造をもつ内陣の響きは、音量は小さくとも美しく混じり合うというピリオド楽器の際立った特徴を十二分に発揮させたはずだし、それこそガーディナー自身が目指した効果でもあった。
 このピリオド楽器の微妙に反響し、解け合う美しい響きは、優れた音響技術とともに複雑に入り組んだ聖堂の内陣構造やモザイクによる壁面を仔細に映し出す視覚的効果によるところも大であり、映像を担当したBBC放送スタッフの予想外の功績とも言えるのではなかろうか。
 古楽オーケストラとともに十分に訓練された手兵モンテヴェルディ合唱団も当然優れた演奏を聴かせるが、歌手のなかでは、やはりカウンター・テナーのマイケル・チャンスと、バスのブリン・ターフェルが上手い。(尚、作曲者により、2つ用意されたマニフィカートの中、ここでは第2マニフィカートが省略されている)

 そして、ヴェネツィアといえば、サン・マルコ大聖堂とともに、大運河の反対側にあるサンタマリア・グロリオーサ・ディ・フラーリ教会にある、ティツィアーノ畢生の大作祭壇画「聖母マリアの被昇天図」が思い出される。
 雲に乗り天使たちと共に天国へと引き上げられるマリアが昇天したのは、真夏の夕べ、このヴェネツィアの美しい運河に映える夕陽の中ではなかったのかと思わず錯覚してしまうのである・・・。

 ジャケットの画像は、大聖堂内部での演奏風景だが、ほの暗い中に壁面モザイクの金色と合唱団の羽織るマントの鮮やかなピンクが印象的。ちなみに、CD版のジャケットには、壁面上のモザイクによる黄金に輝くキリスト像が採取されている。