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第049回 2007/06/15
反骨のチェリスト、ロストロポーヴィッチを偲ぶ

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米フィリップス PHS2−920(2)
ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン『チェロ・ソナタ(1〜5)全集』

ムスティスラフ・ロストロポーヴィッチ(vc)スヴィァトスラフ・リヒテル(p)

(録音:1961年7月〜1963年3月)


 カザルス以降における「20世紀最高のチェリスト」であり、屈指の名指揮者でもあったロストロポーヴィッチが、今年(2007)4月27日、祖国ロシアのモスクワの病院で死去した。享年80歳。死因は不明。昨年12月にも来日公演したばかりであり、つい最近まで不死身のように世界中を股にかけ活躍していただけに、この訃報に接したときは、些か驚いた。
 偉大な音楽家であるとともに、彼を語る場合、忘れてはならない事は、反共、反体制の筋金入りの闘士であり、民主化、平和運動に対する飽くことなき推進者でもあったという事実であろう。以前、このコラムでも触れたが、現在、世界の音楽界を見渡してみて、このロストロポーヴィッチほど、スケールの大きさを感じさせるいわゆる巨匠らしい巨匠はいなかった。
 ムスティスラフ・ロストロポーヴィッチ。彼の名前がいかにも長くて舌を噛みそうになることもあり、日本ではロストロなどと略称されたりするが、筆者はこの呼称をあまり好まない。以下、親しみをこめて彼のロシア風愛称”スラーヴァ”で通すことにしたい。
 スラーヴァことロストロポーヴィッチは、1927年、旧ソ連・現アゼルバイジャン共和国の首都バクーで生まれる。父はチェリスト、母はピアニストという音楽一家だった。とくに父レオポルド(1892−1942)はパリでパブロ・カザルスに師事した著名なチェリストであり、後にモスクワ中央音楽学校の教師もつとめた。スラーヴァは4歳で母からピアノを、7歳のとき父からチェロの手解きを受ける。10歳になったときサンサーンスのチェロ協奏曲1番でデビューし、神童として大いに注目を浴びた。モスクワの中央音楽学校でも引続き直接父に教わっているので、彼はかの巨人カザルスの孫弟子ということにもなる。1943年、モスクワ音楽院に入学。チェロはコゾルポフ、作曲をショスタコーヴィッチに師事した。

 45年、全ソヴィエト音楽コンクールで金賞、49年、ブダペスト国際コンクール優勝、50年、プラハの国際コンクールで優勝、51年と53年には何れもスターリン賞を受賞し、そのころから国の内外でいずれはカザルスを継ぐべき逸材と呼ばれるようになる。1956年には母校モスクワ音楽院の教授に推挙され、74年までその任に当たる。正に飛ぶ鳥も落とす勢いというべきか、恩師ショスタコーヴィッチを初め、ハチャトゥーリアン、ルストワフスキ、プロコフィエフらを含め、彼のために数多くの作品が献呈された。その後、ブリテンなど西欧諸国からの献呈もあり、彼に捧げられた作品は何と100を超えている。
 1955年には、モスクワ・ボルショイ歌劇場の花形プリマ、ガリーナ・ヴィシネフスカヤと結婚、1962年以降は、指揮者としてのキャリアを開始。夫人のピアノ伴奏者として歌曲の分野や、ギレリス、コーガン、リヒテル、オイストラッフらと室内楽の分野でも活躍の場を広げていく。
 63年には、レーニン賞を受賞, 66年には、ソヴィエト連邦「人民芸術家」の称号を受ける。そして、68年には、夫人ガリーナも出演したオペラ「エウゲニー・オネーギン」を指揮して大評判となった。

 ここまでは全てが順風満帆だったのが、1968年を境に彼を取り巻く事態は一変してしまう。このころ彼は反体制ノーベル賞作家のソルジェニーツィンを4年間も自分の別荘にかくまったのである。さらに同作家を弁護して当時のブレジネフ政権と対立し、これに怒った政府当局は国外演奏旅行はおろか、国内での一切の演奏活動について禁止処分を行い、一時的に彼と夫人ガリーナは軟禁状態に置かれる。
 74年になって漸く禁止が解けたのを機にガリーナとともにロンドンで事実上亡命し米国移住を決断。西欧に活躍の場を求めるとともに、ソ連への激しい批判を続けながら、様々な人道上の活動を行った。
 偶々 この時期、ニューヨークに駐在中だった筆者は、彼のコンサートにも度々足を運んだが、会場内は実に物々しい雰囲気で、演奏中でも銃をもった多くの警備員が各通路ごとステージを背に聴衆の方に向って配置されていた。異常な状態下ではあったが、それだけに演奏にも緊迫感があふれていた。
 77年、アメリカの首都ワシントンDCにあるナショナル交響楽団の音楽監督に就任、ショスタコーヴィッチの問題作などを積極的に取り上げたり、反体制物理学者サハロフ博士の擁護を行うなど、その間も増々ソ連批判を強めていった。78年にはソ連の市民権を剥奪される。覚悟はしていたようだが、流石にこの処置にはかなりショックだったようだ。
 89年11月、ベルリンの壁の崩壊時には、いち早くパリから現場に赴き、独り壁の前でバッハのチェロ組曲3番を演奏し、世界の人々を感動させる。
 90年 ペレストロイカにより、ようやく待望の市民権が回復され、いち早く里帰り公演を行って、祖国の聴衆と喜びを分かち合った。ところが、翌91年8月ソ連保守派によるクーデターが勃発。その阻止のため、スラーヴァはヴィザも持たずにモスクワに乗り込み、先日ほとんど時を同じくして亡くなったエリツィン元大統領らとともに民主主義の防衛を訴えて、このクーデターを未遂に終わらせたのである。
 こうした民主化や自由擁護のための活動のみならず、ロシアの児童の治療改善のため夫人とともに財団を設置したり、あらゆる種類のチャリティ運動にも積極的に参加し、これらの功績に対し世界各国から100以上の表彰を受けている。

 そのスラーヴァを偲ぶために今回は彼の原点であるチェリストとして、巨匠リヒテルと共演したベートーヴェンのチェロ・ソナタ全集(3つの変奏曲は含まれない)を取り上げたい。
 ベートーヴェンのソナタ5曲は全てが名曲であり、しかも作曲の時期も1796年から1815年までの期間に初期が2曲、中期が1曲、後期が2曲と広汎に渉るため演奏の難しさもさることながら、それぞれの時期による特徴なり魅力を際立たせる必要がある。録音史上、カザルスによる戦前と50年代初めの新旧セット、フルニエがグルダおよびケンプと組んだセット、シュタルケル、トルトリエ、デュ・プレ、比較的新しいところでは ヨーヨーマ、マイスキー、古楽によるビルスマに至るまで幾多の名全集が残されているが、筆者はやはりスラーヴァとリヒテルによる全集をとりたい。
 20世紀後半、ソ連が生んだ最高のチェリストとピアニストによる丁々発止とした全く対等な競演によって圧倒的な力強さとスケールが生み出され、幻想的なリヒテルのどちらかといえばクールなタッチが、スラーヴァの強靭にして時に繊細、そして何よりも情熱的なボーイングをしっかりと支えていく。とくに、3、4、5番が彫りの深い名演であり、感動的である。
 ちなみに、この2人、政治に対する姿勢においても、亡くなるまで無関心を装った1915年生まれのリヒテルに対し、自身を深くコミットし常に渦中に飛び込んで、その中心になって活動したスラーヴァは全く対照的だった。

 58年の初来日以来、大の日本贔屓となり、指揮者小沢征爾とは「兄弟のような仲」といわれ、共に日本の辺鄙な地方公演に出掛けたり、神戸震災被害者救済などでチャリティ活動をする様子が、何回となくTVでも紹介された。
 鮨が何よりの大好物とか、大相撲にも全く目がないという超親日派でもあった。
 心からご冥福をお祈りしたい。 合掌

 ジャケットは、モノクロによる2人の奏者の録音風景、撮影はハロルド・ローレンスとアリエ・プラス。アルバム・デザインはジョージ・マース。