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第048回 2007/05/10
「未完成交響楽」ー 懐かしの名画と養母の思い出

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米コロムビア MS 6218
フランツ・シューベルト 『交響曲 第8番 ロ短調「未完成」』&『交響曲 第5番 変ロ長調』

ニューヨーク・フィル(第8番)&コロムビア交響楽団/ブルーノ・ヴァルター(指揮)

(録音:1958年3月3日、ニューヨーク(第8番)& 1960年2月26日ー3月3日 ロス・アンジェルス)


 シューベルトの「未完成」は、筆者にとって10代初めの頃からブルーノ・ヴァルター指揮ウィーン・フィルのSP盤で慣れ親しんだ懐かしい曲である。偶々、家にあった古いレコードを旧式の蓄音機にかけながら、一体何回聴いたことであろうか。そして今でもこの曲に接すると何故か亡き養母の面影とともに、ハンス・ヤーライ、マルタ・エゲルト主演、ヴィリー・フォレスト監督によるドイツ=オーストリア映画「未完成交響楽」(1933年制作)の場面が蘇ってくる。戦前、大阪生れの亡母が20代のころ、所属していた朝日コーラス(大阪朝日新聞社後援による合唱団)の仲間たちと数えきれないほどこの映画を観に行った話や、そのロマン溢れるストーリーの細かな一部始終を、これまた一体何回聞かされたことであろうか。
 以来この映画に対する或る種のイメージは抱きつつも、漸く映画そのものに出会ったのは、戦後もかなりを経て何回目かの再上映をしていた都内の名画座に於いてであったが。
 ストーリーは、小学校教師でもある作曲家シューベルトが、ある日、キンスキー公爵邸の夜会に招かれて、この「交響曲ロ短調」をピアノ演奏する。やがて第3楽章に差しかかったところで、突然、聴衆の一人の令嬢が笑い声をあげる。気分を害したシューベルトは演奏を即座に止めるや奮然と席を蹴って帰ってしまう。それから、幾月かが流れ、ハンガリーの貴族エステルハーツィー家から音楽教師としての誘いがあり訪れると、何と彼が教えることになった令嬢は、あの夜会のときの笑い声の主、カロリーネであった。カロリーネは深く詫び、2人はやがて愛し合うようになる。一緒に村の酒場に出掛けて皆と大騒ぎをしたり、有名な”麦畑の接吻”シーンがあったりして、2人は結婚の約束までするが、結局、身分の垣根を超えることは出来ず、令嬢は別の貴族の男性と結婚することになる。結婚式の当日、シューベルトは、再び招かれて、完成された同じ曲を演奏するが、前と同じ箇所までくるとカロリーネは慟哭してしまい、それ以上続けることが出来ない。彼は、スコアに「我が恋の終わらざるが如く、この曲も永遠に終わらじ」と記し、以降の部分を未完として永遠に封印してしまう。この交響曲が何故未完に終わったかという謎に対しシューベルト自身の失恋を理由としたものだが、これはあくまでフィクションのようである。ただし、「セレナーデ」「軍隊行進曲」「菩提樹」「野バラ」そして最後の「アヴェ・マリア」に至るまで、シューベルトの美しい名曲が次々に現れ、映画としても、美男美女による甘いラヴ・ロマンスではあるが、叙情味豊かな音楽ドラマに仕立てられていて、同年の「キネマ旬報」誌の洋画部門では4位になった。

 確かにシューベルトは、史実においても名歌手カロリーネ・ウンガーの父親の紹介でエステルハーツィー伯爵に紹介され、音楽教師として雇われたのは事実であり、1818年(21歳)と24年(27歳)の2度にわたって同家の2人の令嬢姉妹マリーとカロリーネを教えるためハンガリーのツェレスにある館を訪れて、それぞれ4〜6ヶ月程ここに滞在している。最初の訪問時はカロリーネも未だ11〜12歳だったが、2回目のときは年頃になっていたこともあり、双方向かどうかは不明だが、プラトニックにせよ恋愛関係の可能性は大いにあった。しかし所詮2人は結ばれぬ運命であり、シューベルトにとってカロリーネは一層美化された形で後々まで長い間憧れの存在であり続けたようである。

 ところで、この未完のロ短調交響曲であるが、オリジナルのピアノ・スコアに記された日付によると、1822年10月に着手されている。23年4月、シューベルトは、グラーツのシュタイアーマルク音楽協会の名誉会員に推挙され、その返礼としてこの作品を贈るべく、自筆譜が仲介者である知人のアンセルム・ヒュッテンブレンナー宛に発送されたのが翌24年のことだった。ただし、そのとき完成されていたのは、最初の2楽章 即ち第1楽章(アレグロ・モデラート)と第2楽章(アンダンテ・コン・モト)までだったので、仲介者は残りの部分が届くのを暫く待っていた。多分残りは後で送るということだったと推定されるが、この自筆譜の経緯についても謎が多い。その後、シューベルトから残りの部分が送られたという記録もなく、結局この交響曲は以来未完成のまま、まったく忘れ去られた状態になったいた。
 漸く1865年になって、ウィーンの指揮者ヨハン・ヘルベックが、偶々この作品の存在を知り、ヒュッテンブレンナーの机の中に眠っていたスコアを発見する。早速、同年12月17日、ヘルベック指揮の下で、初めてウィーンで公開演奏が行われ、陽の目を見る事になった。シューベルトが亡くなってから37年、作曲されてからは実に43年後の出来事であった。

 では、一体、本当のところ何故未完に終わったのであろうか。作曲家の故芥川也寸志氏の推理が面白いのでここに引用させて頂きたい。
 氏の作曲家的直感によると、数多ある説の中で、氏にとって最も真実味を感じさせるのは、この曲のことを忘れてしまった説だそうである。理由として、シューベルトは猛烈な早書きとして有名で、例えば18歳のとき、「野ばら」「魔王」などの名作を含め歌曲が何と145曲、更にト短調のミサ、第二交響曲、オペラ4曲、その他多数と途轍もない数量の曲を書いており、少し前の書きかけなどは忘れて当然。しかもこんなに次々と書ける人は全く新しいものを書く方が遥かに面白く、とても過去を振り返るなど不可能に近い筈。但し、この曲の場合はただ何となく忘れてしまったのではなく、どうも途中で続けるのに嫌気がさして一旦休止した上で、忘れてしまったのではないかと推察される。その理由として、1楽章も2楽章も、トントン拍子に書き終えて気がつくと何れも3拍子であり、3楽章も3拍子で20小節ほどを書き始めてしまったからである。(実は、すべて3拍子ということもあって、この曲ほど有名で、演奏技術もさほど難しくないにも拘らず、指揮者として面白い演奏に仕立てることの難しい曲もないそうである)

 それにしても、この作品、未完ながら文句なしの名曲である。第1楽章の導入部はチェロとバスのユニゾンによる「まるで地下の世界から沸き上るような」やや暗いモティーフで始まるが、これが展開部やコーダ、さらに第2楽章の冒頭にも現れ、この作品全体の基調をなしている。続いて小波のような第1主題と憧憬を思わす第2主題が絡むソナタ形式による第1楽章を経て、美しい旋律が次々と現れる2部形式による第2楽章では、とくにオーボエ、クラリネットと受け継がれる第2主題がとても印象的である。作品全体を支配する天国的な響きはロマンと叙情にあふれており、ブラームスが述べているように、形式的には確かに未完かもしれないが、内容的には十分完成された作品とするのが妥当な考え方かもしれない。現にあらゆる交響曲の中でも、この未完の作品は演奏頻度においてもトップ・クラスであるのが、何よりの証左といえよう。こうなると、シューベルトは、敢て完成させずに未完のままにしておいたという説もかなり説得力がありそうだ。

 さて、この作品が生まれた1822年という年、年齢的には未だ25歳であるが、31歳で他界したシューベルトにとっては円熟期といってもよい。この「未完成交響曲」以外に、「死の音楽」「去っていった人に」「出会いと別れ」「さすらい人の夜の歌」などの多くの歌曲、ミサ曲変イ長調、そして「さすらい人幻想曲」などを作っている。そして、この同じ年に彼には珍しい「ぼくの夢」という自伝的寓話を書いているが、この寓話とこれら作品群との関連についても種々の議論がなされている。教師となるよう強制する父親との葛藤、10代での母の死、愛と死と孤独についての考えなどが自伝的に記されたものだが、この寓話には、とくに彼自身の人生や家族に対する誠実な姿勢とともに 孤独な”さすらい人”への強い共感が滲みでているようだ。家族思いで兄弟仲がよく、友情を重んじ、終生独身のまま30年そこそこの短い人生を駆け抜けたシューベルトの実像と耽美的ではあるが、どこか淋しげで暗い影に被われた「未完成交響曲」。この2つを繋ぎあわせているのが、「ぼくの夢」であるように思われる。

 蛇足ながら、この寓話にも触れられているように、シューベルトは15歳のとき最愛の母を失っているが、翌年父が後妻に迎えた比較的若かった養母アンナに対しても終生姉のように親しく接している。私事ではあるが、筆者も少年時代、終戦直後に実母を亡くした後、成人するまで分け隔てなく育ててくれたのが、最初に記した養母であった。作曲家シューベルトのことが殊更身近な存在に感じられるのも、或はそうした境遇における類似性によるものかもしれないと思ったりする。

 演奏はLPということであっても、数多の名演の中から、やはりブルーノ・ヴァルター指揮ニューヨーク・フィルを採りたい。格調の高い第1楽章に続く第2楽章も、テンポは他の演奏と比べて、かなり遅いという感じはするが、てんめんとした情緒性において全く比類がない。これぞウィーンという感じだったSP時代のウィーン・フィルとの名演を想起させる。カップルされている交響曲5番のほうも 同じヴァルターによる名演として知られたもの。
 シューベルトとヴァルター2人が額縁に入ったジャケット写真は、ヘンリー・パーカーによるものだが、全体の色調がセピア色なのがよい。