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第043回 2007/03/19
「ポップの女王」マドンナの虚像と実像

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米サイアー 25442
マドンナ『トゥルー・ブルー』

パパ・ドント・プリーチ/オープン・ユア・ハート/ホワイト・ヒート/リヴ・トゥ・テル/パーティは何処に/トゥルー・ブルー/ラ・イスラ・ポニータ/ジミー・ジミー/メイクス・ザ・ワールド・ゴー・ラウンド(愛は世界を巡る)

マドンナ(vo)、P。ジャクスンJr、D。ウイリアムス、B。ガイチ、D。ハフ(g)P。レナード(key)S。ブレイ, J。モフェット(ds)etc.

(初売;1986年6月)


 今や世界のポップ界における並ぶものなき女性スーパースターといえば、やはり断然マドンナということになろう。
 1980年代半ば「マリリン・モンローの再来」をキャッチフレーズに、セックス・シンボルとして衝撃的スタートを果たしたマドンナは、以降も常に大胆な挑発的言動でイメージを変えつつ、過去20年間以上この世界に君臨し、単なる一歌手に止まらず、女優としてまたプロデューサーとして映画や舞台、あるいはプロモーション・ビデオなど映像部門への進出、さらにレコード会社やその他マルチ・エンターティンメント事業への経営参加など、「史上最も成功した女性アーティスト」へと上り詰めた。
 このマドンナを語るとき何時も云われてきたのは、スキャンダラスな毀誉褒貶、神への冒涜と非道徳的反社会性、あばずれと淫乱、露出狂と露悪趣味、男のおもちゃと拝金主義、恋多き女の限りない男性遍歴、世界征服という野心のためには手段を選ばないなどなど。確かに一部にはそうした事実もあったのだろうし、更には、或る部分が殊更誇張され報道された面もあったに違いない。
 しかし、最近の新聞報道などで、マドンナがアフリカのエイズの子供の里親になるとか、反戦運動やエイズ撲滅運動へ積極的に参加するなど現在のトップ・アーティストの中で最も熱心なチャリティ活動の推進者の一人であることを知ったりすると、これらは虚像を造り上げるための強かな計算上の言動であり、彼女には実像としての別の側面もあるのではないかと思わせる。
 このただ者ではないマドンナという女性、一体どんな経緯を経て世界の檜舞台へ駆け上がったのであろうか。

 1958年、(以前は1960年とか61年説もあった)敬虔なカトリック教徒だったイタリー系移民の8人の兄妹の長女として、ミシガン州デトロイト近郊のベイシティで生まれる。父は自動車会社GMのデザイン・エンジニアだったが、彼女が6歳のとき、母がガンで死去。翌年、父が再婚して義母が家族に加わるが、当時の父との確執は、後年の自作の歌にも歌われる。しかし、弟や妹の面倒も良くみるすこぶる真面目な少女だったという。ハイスクール時代、問題児ではあったが、常にオールAという優秀な学業成績で、チアリーダーを努めたり、モダン・ダンスやジャズ・ダンスに熱中する。このダンスやバレエに対する傾倒が、のちに歌って踊れるエンターティナーとしてのマドンナの将来を決めたといってもよい。1976年、18歳のとき成績優秀により奨学金を得て、ミシガン大学音楽科に入学したが、翌77年には、ダンス教師の薦めもあり、あっさりと中退して僅か35ドルの金とグレイハウンド・バスの片道切符だけをもって、単身ニューヨークへと出発することになる。
 ニューヨークでは、ファストフードの店員やモデルなどで食いつなぎながら、ダンスと歌の勉強を続け、成功へのチャンスをうかがう毎日が始まる。自身、回想しているように彼女にとって生涯で最も苦難の時期でもあったようだ。
 1978年(20歳)プロのダンサーとしてデビュー。また、ダン・ギルロイとバンド「ブレックファースト・クラブ」を結成。
 1982年(24歳)サイアー・レコードと契約。10月、シングル盤「エヴリボディ」で歌手デビュー。これが、ビルボードのダンス・クラブ・プレイ・チャートでいきなり3位を記録。
 1983年(25歳)、ファースト・アルバム「マドンナ」が、大ヒットし、全米400万枚、世界で800万枚を販売。
 1984年(26歳)セカンド・アルバム「ライク・ア・ヴァージン」も 世界で
2,000万枚、11カ国でチャート ナンバー1となる。
「モンローの再来」と云われたのは此の頃だったし、このアルバムのヒット曲「マテリアル・ガール」(拝金主義の女の意)は、彼女の代名詞ともなった。
 1985年(27歳)初来日。以降、計6回来日している。俳優ショーン・ペンと結婚(8月)

 そして、1986年、サード・アルバムとして発売されたのが、今回取り上げる「トゥルー・ブルー」である。ショーンとの結婚後に制作が始まったせいか、従来の激しいダンスやアクションを前提としたナンバーからソフトでバラード風な曲目を加えたり、詩の内容にもかなり女性らしさが強調される。しかも、「パパ・ドント・プリーチ」以下、全曲の作詩にマドンナ自身がかかわり、プロデュースも担当した。直ちに、世界28カ国でヒット・チャートのナンバー・ワンとなり、女性ソロ・シンガーでは史上1位の2、400万枚を売り上げ、マドンナは、このアルバムによって名実ともに世界の“マドンナ”となった。
 とくに、「リヴ・トウー・テル」は、マドンナの代表的バラードとして、シングルでも全米1位、全英2位の大ヒットとなり、夫ショーンの主演映画「アット・クロース・レンジ」の主題歌にもなった。ちなみに昨2006年の世界ツアーでは、高さ6メートルの十字架にマドンナ自身が磔の状態になって歌ったのがこの曲であり、大いに物議をかもした。

 1989年(31歳)フォース・アルバム「ライク・ア・プレーヤー」、このアルバム用プロモーション・ビデオでも十字架を燃やすシーンがあり、宗教界を中心に世界的な論議が巻き起こる。
 1990年代中頃から意図して「脱セックスシンボル」へと移行。
 1996年(38歳)ミュージカル映画「エピータ」で主演。ゴールデン・グローブ賞でミュージカル部門最優秀女優賞を受章する。
 1998年(40歳)「レイ・オブ・ライト」がMTVビデオ・ミュージック・アウォード受賞。
 2000年(42歳)9番目のアルバム「ミュージック」を発売。
 2003年(45歳)10番目のアルバム「アメリカン・ライフ」を発売。反戦を主張する過激なビデオ・クリップが、この年に勃発したイラク戦争と重なり、大いなる議論を巻き起こす。
 同年9月には彼女自身の執筆になる最初の児童用絵本「イングリッシュ・ロージーズ」が、世界100カ国以上で翻訳出版され、ニューヨーク・タイムズの児童部門ベストセラー・リストでナンバー・ワンに輝いた。その後も2007年までに7冊の児童用絵本を出版する。
 2005年(47歳)津波のチャリティ番組に出演。落馬事故(8月)、
 2006年(48歳)11番目のアルバム「コンフェッションズ・オン・ナ・ダンスフロア」発売後、コンフェッションズ・ツアーに出発。(さきに述べた十字架パフォーマンスで非難されたのは、このツアーのときである)

 この11番目のアルバムに至るまで、何れも圧倒的な販売数を誇り、総合計数アルバムで4億枚、シングル・ディスクで7、500万枚という数は、女性アーティストでは史上ナンバー・ワンと認定(ギネス・ブック)された。

 彼女も来年は50歳、2000年に2番目の夫、英国の映画監督ガイ・リッチーとの間に生涯の第2子(男)も誕生し、波瀾に満ちた彼女の人生に於て、そろそろ静かな平穏が訪れても良い時期ではあるのだが、果たしてどうであろうか。

 最後に今回取り上げたアルバム「トゥルー・ブルー」のクロージング・ナンバーであるマドンナ作詩になる「ラヴ・メイクス・ザ・ワールド・ゴー・ラウンド(愛は世界を巡る)」からの1節を引用して、本コラムもクローズとしたい。
 やや理屈っぽく未だ少女らしい一途さも感じさせるが、マドンナの場合、こうしたスタンスは、50歳近くなった現在に至るまで、ほとんどブレることなく波打っているように思われる。

 

「“戦争をやめて愛しあおう” 口でそう言うのは簡単だけど
言葉だけじゃどうにもならない それをめざして闘わなければ
銃やナイフは必要ないわ 世界中に生きている
幼い子供たちの命を救うためには
(コーラス)
飢餓は至るところで猛威をふるってる  いまこそ立ちあがって
助けを求める人に手を差しのべるの  愛が地球をまわすのよ
無視することはたやすいわ  でも苦痛や偏見を
放っておいてはいけない  愛が地球をまわすのよ

愛の力を信じない人たちには  私たちが手本を示してあげればいいの
愛とは理解すること 助けを求める人に手を差しのべること
あなたがしたことの報いは  いつかあなたに返ってくるわ
手遅れにならないうちに  私たちの運命を変えなくては
(コーラス)
その人の立場になってみるまで  人のことはわからないもの
私たちがすぐ目をそらしてしまうのは  そのほうが楽だから
私の言うことは間違っていないでしょ (以下 略)」
(以上 内田久美子 訳  日本盤「トゥルー・ブルー」 歌詞カードから転載)

 ジャケットはブルーを基調にしたバックにマドンナのプロフィール。優れたアート・ディレクションは、ジェフリー・アイヤーロフとジェリ・マクマナスによるものだが、このアルバムの大ヒットに、このジャケットが一役も二役もかっているのではと思わせる。撮影はマドンナの友人でもあるハーブ・リッツ。