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第020回 2006/06/01
イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」と
アメリカ独立200年祭

DISC20

米アサイラム 1084/CD, 日WEA WPCR-11565
イーグルス『ホテル・カリフォルニア』

ホテル・カリフォルニア/ニュー・キッド・イン・タウン/駆け足の人生/時は流れて/暗黙の日々/お前を夢みて/素晴しい愛をもう一度/ラスト・リゾート

ジョー・ウォルシュ(vo, g & key), ドン・フェルダー(vo, g & slide g), グレン・フライ(vo, g & key), ランディ・マイズナー(vo, b & g), ドン・ヘンリー(vo & d)
(録音:1976年3月〜10月 マイアミ&ロサンゼルス)


 今からちょうど30年前の1976年7月4日、アメリカ合衆国はその栄えある独立200周年を迎えることになるのだが、70年代に入ってそれまでの期間、この国は、政治・経済ともに第2次大戦後かつてない最悪の状況にあった。
 大戦後それまでは、経済的には市場経済原理を、政治的には表向き民主主義体制を標榜しつつ世界に君臨してきた国である。圧倒的に強いドルを背景に、自由貿易と固定相場制を中心とする世界の経済体制(ブレトン・ウッズ体制)を推進するとともに、政治的にも対西側諸国のみならず世界的に強力なリーダーシップを確立しつつあったのだが、70年代前半、降ってわいたのが、相次いで起った2つのニクソン・ショックだった。
 1つは、1971年8月、同大統領により突然発表された金とドル交換停止に始まる大幅なドルの切り下げと変動相場制への移行である。これにより、戦後続いたブレトン・ウッズ体制は脆くも崩壊、大幅な財政赤字とデフレ、そして莫大な貿易赤字へと発展し、アメリカ経済は、迷走状態へと動き出すことになった。
 もう1つは、大統領が絡んだ史上最悪のスキャンダルと言われたいわゆるウォーターゲイト事件。最終的には1974年、大統領ニクソンの失脚へと発展して決着したが、これは、アメリカ民主主義の根幹を揺るがす一大事件となった。
 更に、対外的には60年代から延々と続いていたヴェトナム戦争。この大義なき戦争は、帰還兵の引き起こす幾多の社会問題とともに、相次ぐヴェトナムでの敗戦は、アメリカ国内にも、大きな不安と厭戦気分を巻き起こしていた。1975年4月、サイゴン陥落を契機に、アメリカ兵の戦死者数 58000人余、失った飛行機数1700機余とともに浪費された莫大な戦費をもってヴェトナム戦争は漸く終結することになる。
 そして、訪れたのが翌1976年の建国200年祭だった。筆者は、当時ニューヨークに駐在していたが、日本を含む世界中からアメリカを祝福するため、ハドソン河畔のニューヨーク港には溢れんばかりの帆船などが集結し、何時果てるともない花火の競演とともに、アメリカは、挙げて祭り一色のムードに湧き酔っていた。

 カリフォルニア・サウンドの代表格、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」が生まれたのは、その真ただ中のことである。しかも、彼らがこのアルバムに込めたメッセージは、決してそうしたムードに酔った浮ついたものではなかった。アルバムのタイトルになっている最初の曲「ホテル・カリフォルニア」には 次のような文句がある。

ミッションの鐘が鳴ると 戸口に女が現れた
「ここは天国か 地獄か」 俺は心の中でつぶやいた
すると 彼女はローソクの灯をともし 俺を部屋まで案内した
廊下の向うで こう囁きかける声が聞こえた

ホテル・カリフォルニアへようこそ ここは素敵なところ(そして素敵な人ばかり)
ホテル・カリフォルニアは いつでも あなたの訪れを待っています
・・・
「ワインを飲みたいんだが」と キャプテンに告げると
「1969年からというものスピリット(*)は一切置いてありません」
と彼はこたえた
・・・
最後に覚えていることは 俺が出口を求めて走りまわっていることだった
前の場所に戻る通路が どこかにきっとあるはずだ
すると 夜警が言った 「落ち着きなさい われわれはここに住みつく運命なのだ
いつでもチェック・アウトはできるが ここを立ち去ることは出来はしない」

(作詞:ドン・フェルダー/グレン・フライ/ドン・ヘンリー 対訳:山本 安見
但し、*の箇所は同訳のワインでなく、原文通りスピリットとした ― 筆者)

 この歌には、快適なカリフォルニアで遊び暮らすうちに、立ち去ることが出来なくなってしまった人々が描かれる。それは社会的不安に目を背けてカリフォルニアン・ライフを享楽する人々に対する痛烈な風刺であるとともに、ドン・ヘンリーが述べているように、ブームにわくカリフォルニアだけではなく、アメリカ全体が陥っていた当時の閉塞感を糾弾した「建国200年を迎えたアメリカへのステートメント」でもあった。
 また、詩に詠われる1969年以来、置いていないという「スピリット」には 本来の「酒」「アルコール」という意味とともに「精神」「活力」「生気」といった意味が含まれている。一体1969年は、アメリカにとってどんな年だったのだろうか。
 例えば、ヴェトナム戦争。1965年の北爆開始以来、若者が中核となって反戦運動が最も盛り上がったのが1967年だった。翌1968年3月、当時の大統領ジョンソンは、北爆停止と大統領選挙への不出馬宣言をする。同年の大統領選挙でニクソンが当選し、翌69年1月、大統領に正式に就任。そしてこの年の8月、ウッドストックで史上最大のロック・フェステイバルが開催された。ウッドストックは、公称でも全米から若者たちが40万人以上参加したといわれ大成功だったが、続くオルタモントは悲劇に終わり、これを機に、この種の大型ロック・フェステイバルは急速に退潮の兆しを見せ始める。
 いろいろな意味で、1969年という年は、アメリカ、中でもアメリカの若者たちにとっては大きな節目の年だったのである。

 演奏のほうも、まるで日本の演歌をおもわせるような哀愁味をおびたリード・ヴォーカルのドン・ヘンリーの甘い声に、ジョー・ウオルシュとドン・フェルダー、2人による冴え渡るギター・アンサンブルが忘れがたい。タイトル曲以外でも、「ニュー・キッド・イン・タウン」「駆け足の人生」「時は流れて」「ラスト・リゾート」など、作品・演奏ともに強烈な自己主張が見られる。
 1976年12月発売されるや、翌77年1月以来、アルバム・チャートのトップに躍り出て8週間連続で1位を続けて忽ちミリオン・セラーとなり、今までに1500万枚以上を売り上げた。1977年のグラミー賞受賞アルバムでもある。
 このイーグルスというグループ、元々、いろいろなバンドで働いていた面々が、失職して毎晩のようにロサンゼルスのサンセット通りにある“トルバドール”というクラブに入り浸っていたところを、1971年、同じく常連の1人だったリンダ・ロンシュタットに誘われ、彼女のツアー・バンドとしてスタート。全員が、ヴォーカルと楽器、しかも曲が書けるという才人で、ツアーが終わったら独立しようと約束し合い、翌72年、夢も高くバンド名もネイティヴ・アメリカンの神話から採った「イーグルス」(鷲)として発足した。当初から中々野心的なグループだったが、そのピークがこの「ホテル・カリフォルニア」である。

 アルバム・ジャケットは、夕日に映えるホテルと椰子の木々。右下に「ホテル・カリフォルニア」のネオン・サイン。デザインは、ビートルズの「アビー・ロード」などのジャケットも手掛けた1944年生まれの人気作家ジョン・コッシュによるものだ。撮影には、サンセット通りにあるピンク・パレスと呼ばれた実在のビバリーヒルズ・ホテルが使用されている。