ユーラシア大陸の西はスカンジナビア半島から東はカムチャッカ半島にいたるまでのタイガ地帯で夏に繁殖、秋になると南下し、西はイベリア半島、欧州中央部から東は日本列島に至るまでの広い地域で越冬する、我が国では典型的な冬鳥です。関東地方では、例年山間部に飛来することが多かったのですが、この冬はどういう訳か、埼玉県、茨城県、千葉県では都市部の市街地の公園でよく観察されています。埼玉県下では、北本市の北本自然公園、さいたま市の秋ヶ瀬公園、さいたま市、蕨市に亘る彩湖でかなりの個体数を確認できました。二年ほど以前に、ウソがかなりの数、関東地方の都市公園で観察された状況とよく似ています。この原因が何であるのか今のところ不明です。
アトリとは不思議な名前です。「鳥名の由来辞典」(柏書房)によると、万葉の時代には獦子鳥(あとり)と呼ばれ、室町、安土桃山時代には「あっとり」と呼ばれ、江戸時代にはその双方が用いられ、今日の「アトリ」に統一されるに至ったと経過の説明がされていますが、「大言海」の説明する語源として、大群をなして移動することから集鳥(あつとり)が略されたという説を紹介しています。また、この「由来辞典」では、今日漢字表記する際に普通に用いられる「花鶏」(かけい)については、単に、「漢名」とのみ記載されています。
そうしますと中国で「花鶏」と記述されたアトリを、ある時日本でそのまま取り入れ、それを「あとり」と読み下したと理解するしかないようです。和名がほぼ確定した明治時代もしくはそれ以前の中国名は、おそらく「花鶏」だったのでしょう。今日、アトリは、台湾では「花雀」、中国では「燕雀」と記述されています。野鳥写真家、文筆家の叶内拓哉氏は「花鶏」の自分なりの解釈として、黒、橙、白とカラフルなこの野鳥が数万、数十万もの大群で飛び交う様が「まるで枯野に花が咲いたようにはなやか」で、そのような光景を目にしてこの鳥に「花」の名を冠したのであろうと述べています(「日本の野鳥100」昭和61年新潮文庫)。残念ながらそう名付けたのは日本人ではなく中国人だったのですが。事実、叶内氏は、昭和60年(1985年)11月に鹿児島県で一万羽のアトリの大群を目にした時の驚きを、「壮観そのものだった」と同書に書き記しています。いつの日か、数千、数万のアトリの乱舞する姿を見てみたいものです。島崎藤村は、「夜明け前」でこのような情報をさりげなく入れています。
「あれは嘉永二年にあたる。山里では小鳥のおびただしく捕れた年で、殊に大平村の方では毎日三千羽づつものアトリが驚くほど鳥網にかかるといはれ」(注:嘉永二年=1849年)
また「万葉集」では「国巡る獦子鳥(あとり)かまけり行き廻り帰り来までに斎(いは)ひてまたね」(よみびと知らず)と「アトリの大移動を、防人が国を廻るのにたとえている」と、「鳥名の由来辞典」は紹介しています。
平野部にも、山間部にも冬にやってくるアトリです。タイトル写真は、ハンの木の実を啄む冬羽メスです(埼玉県彩湖)。下は、冬羽オス(埼玉県彩湖)。叶内氏の述べるように、アトリは三色からなり、オスの場合、喉から胸にかけて橙色、頭部はから背中にかけて黒、腹部が白です。メスはこの色がはるかに薄くなっていると考えてよさそうです。
また、夏羽は頭部の黒味がはるかに増し、橙色の色彩も上がるようです。下は、ほぼ冬羽から夏羽に換羽しているオス(富士山西湖)です。
アトリは秋の季語。
裏山に木々散りつくし花鶏群る 染谷幸子
枯れ葉がすべて散り去り、地面を覆っています。枯れ葉色を背景として、三色のアトリが色を添えている様が目に浮かぶようです。
花鶏来て燻るかまどの煙かな 根岸かなた
稲刈りの終わった田圃でしょうか。かまどから出る煙の向こうに乱舞するアトリの群れが間もなく来るであろう冬を予感させるようです。
小さな声で「キョキョキョ」と鳴きながら飛びまわり、木の実のあるような枝先にとまると、これまた小さい声で「ジューイ」と鳴きます。
この冬、都市部にお住まいの方、林のある近くの公園でアトリを探してみませんか。