国内では、冬の風物詩ともなっているオオハクチョウです。北海道をはじめとして、日本各地に飛来しますが、関東地方では、群馬県、茨城県、千葉県そして少数が埼玉県でも冬になると観ることができます。オオハクチョウの体重は10Kgを越えるといわれ、飛行できる最大限度の重量だといわれています。
大きなからだとこの重量のため、飛行距離もよく似たコハクチョウに比べて1,000Kmも短く、繁殖地のユーラシア大陸タイガ地帯から日本の越冬地までの飛行距離は3,000Kmです。コハクチョウはオオハクチョウよりさらに北の北極圏(ツンドラ地帯)で繁殖し、国内までの飛行距離は4,000Kmと観測されています。
英名につけられたWhooperとは、whoopするもの、つまり大声で叫ぶものとの意味です。オオハクチョウが上の写真のように家族単位で飛ぶ時、また採餌する時、互いによく鳴き交わしあっている様子を観察した表現であろうと思われます。
夏に繁殖したオオハクチョウは、越冬期間までは家族単位で行動します。タイトルの写真の5羽のオオハクチョウ、全身が白い2羽が親鳥で、灰色の3羽が昨年生まれた若鳥です。若鳥の独り立ちは、北の繁殖地に向かう中継場所であったり、また戻って来た繁殖地であったりと、それぞれの家族単位で異なることが最近の調査で分かって来ました。
国内で観察できるハクチョウ属は、普通このオオハクチョウとコハクチョウです。その名前の通り、オオハクチョウの方が大きい(コハクチョウは120cm)のですが、あまり一緒にいることが多くはなく、違いは嘴の色で見分けることができます。下の写真の左側はオオハクチョウ、右側がコハクチョウです。オオハクチョウの嘴の先端部の黒い部分は鼻孔までで、嘴の黄色い部分の方がより広い面積となっています。右側のコハクチョウは、嘴の黒い部分が黄色い部分より広くなります。ただ、コハクチョウの嘴の黒と黄色のバランスには大きな個体差があり、黄色い部分がほんのわずかしかないものから、オオハクチョウと間違うように広いものまでと変化が多様です。面積では判断しづらい個体の場合、嘴の黒い部分の下部が白い顔まではっきりと繋がっているかどうかを見ることにしています。
オオハクチョウ、コハクチョウを区別せずに、「ハクチョウ」を県の鳥と指定しているのは青森県と島根県です。ハクチョウが国内で最初に飛来する北海道では、タンチョウが選ばれています。
本年2月18日、千葉県佐倉市は、市内の高岡新山遺跡から1984年に出土した8世紀後半の蔵骨器(骨つぼ)から、人骨に混ざっていた一つの骨片が、オオハクチョウだと判明したと発表し、話題となりました。現在、印西市の本埜地区には多くのコハクチョウと僅かなオオハクチョウが飛来していますので、8世紀にこの地区にオオハクチョウがいたとしても不思議ではありません。火葬された人骨に野鳥の骨がおそらく人為的に入れられていたのですから、オオハクチョウが宗教的に何らかの崇高な意味を持つ存在として意識されていたことは間違いないようです。
国内の白鳥伝説は、古事記や日本書紀に遡ります。倭建命(日本武尊)は、東征、西征の帰路、能煩野(のぼの)で臨終を迎え、白鳥と化して琴弾原(ことひきはら)に降り立った後、更に飛び立ち河内の旧市邑(ふるいちむら)に舞い降り、ついには果てしれぬ大空へ飛び去ったとされています。それぞれに墓が立てられ、「白鳥三陵」と呼ばれるに至っています。ちなみに今でも三重県亀山市(能煩野)、奈良県御所市(琴弾原)と大阪府羽曳野市(旧市邑)では、この説話に基づき親交を深めているようです。(余談ながら、この倭建命の臨終に際して詠われた四首の歌《古事記:なづきの田の…、浅小竹原…、海処行けば…、浜つ千鳥…》は、いまでも天皇家の大葬、近くは昭和天皇の葬儀で歌われたようです)
記紀で述べられた白鳥は、ヒトの化身とされたのですから、当然大きなオオハクチョウだと推測していましたが、高岡新山遺跡の一片の野鳥の骨がオオハクチョウであったと今年分かったのですから、記紀の白鳥がオオハクチョウを指していることは間違いなさそうです。
ところで、上の写真の灰色の個体は、オオハクチョウの若鳥です。嘴基部は黄色くなく灰色で、頭部、頸から上面にかけても薄い墨色をしています。とても「みにくいあひるの子」には見えません。
ハクチョウは冬の季語。
白鳥の帰るつもりの声そろふ 石田郷子
今日から4月。南の方からだんだんとオオハクチョウの北への旅立ちが始まっています。桜の開花前線と重なり合いながらの旅立ちです。
(注)写真は、画面上をクリックすると拡大できます。