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第146回 2013/3/12

「東日本大震災から二年経ちました」

 2011年3月11日におきた、東日本大震災から早くも二年経ちました。当時の政権担当政党であった民主党は、昨年年末(2012年12月)の第46回衆議院議員総選挙で大敗を喫しました。総議員480名中、民主党の議席は57、かたや現在の政権担当政党である自民党は294議席、さらに連立相手の公明党31議席を加えて325議席、全議席の67%強を占めるに至りました(開票当時)。この間の政権政党としての役割に対する国民の不信任が如実に表れてしまいました。

 民主党政権は、2009年8月の衆議院選挙に大勝し、バラ色のマニフェストを掲げて鳩山由紀夫氏を旗頭にスタートを切りました。この政権の登場は、直前の麻生政権を除けば自民党党首、兼内閣総理大臣であった福田、安部両氏が、次々と自ら退陣するという延長上にあったことを思い起こすべきです。それに先立つ小泉政権は、「郵政民営化」の実現を持って勇退したにもかかわらず、自公政権の持つ活力は、それに続く3代の内閣総理大臣によっては維持できなかったことが歴史的な事実です。2009年8月の選挙直前の麻生政権は、最後まで総選挙を先送りしながら、政策展望を示すことができず、どちらかといえばオーウンゴールによって幕を閉じたといえます。

 望外の勝利を得た、民主党政権は、その本質において「構造改革」を根本的に目指すことで登場し、その点に多くの国民が期待したことは言うまでもありません。自民党一党支配(最後は公明党との連立はありましたが)が半世紀にも及びました(きわめて短期間の連立政権というエピソード的な断然はありましたが)。為政者である政権党、自民党が、あたかも盤石の様な政治的安定性を確保している中では、行政実務を担う諸官僚組織の方向性は単純に一元化されます。官僚と政治家が癒着するという言葉をマスメディアで目にすることがありますし、事実2009年選挙期間中の民主党候補の多くが、そのことをたとえば、官僚の言うがままの政治などとして、自民党を非難していたように記憶しています。政府の支配政党がほぼ固定され、時間の経過とともに、政治家には入れ替わりが生じます。同一政党の後継者であっても人格が変われば、必ずしも政策の一貫性が確保することはできません。しかし行政実務執行機関である官僚組織は、基本政党に変化がない限り、既に踏襲されてきた路線を実直に継承するだけが仕事です。これまでの歴史を踏まえた官僚が、新人与党政治家を教育的な立場で主導することは理の当然で、癒着ではありません。長期単独政権の持続がもたらす必然的な結果なのです。その官僚と政治家の関係は長続きするほどに、特定の産業界が、そして学識者団体がからみあい、日本独特の政治風土がかもし出されてきていたのです。今回のフクシマ原発事故で明らかになった「原子力村」はまさにその典型的な例です。自民党議員の一部、経産省、電力会社、学会の一部(御用学者と呼ばれています)がその構成員といった具合です。こうした政官民に学の加わった排他的利権組織が幾重にもかさなりあい、錯綜してきたのです。

 政権党となった民主党は、この「構造改革」の一端を始めることができるのではないかに期待が集まっていたと思えるのです(かつて、首相となった小泉氏が『自民党をぶっ潰す』と語った時にも、同様の改革の幻想を国民に植え付けましたが)。だが事実は、官僚の政治家との長年の癒着の結果得ることのできた既得権益に最も鋭くメスを切りこもうとしていた(もしくはそのような能力があると思われていた)、民主党首脳、鳩山、小沢両氏が「個人情報」を大々的にリークされ、切り崩されます。構造改革の第一歩は踏み出そうとした瞬間に躓いたと言えるでしょう。引き継いだ、菅直人氏は、結党の先達二名を事実上党内で締め付け、行動力と発言を封じるることによって、「構造改革」の挫折を決定的にしました。東日本大震災とフクシマ原子力発電所事故の対応で、一貫性と誠実性を欠いた菅内閣は不信任へと追いやられます。ここで、2009年のマニュフェストはご破算です。続く、野田佳彦首相は、「消費税増税に政治生命をかける」として自民党政権再登場への道を掃き清めたといえます。

 先の総選挙では、さすがの自民党も、原子力発電の将来性については、遂に積極的な賛成を述べる候補者を一人も出さないまま再び権力の座に返り咲きました。政権末期の民主党は、長期的には原子力発電を停止する計画であることを語っていました。自民党でさえ、真っ向からこれに反論することは今のところありません。既に、昨年12月に述べましたように、今後の原子力発電再開の可否の議論には、その前提として「高レベル放射性破棄物の処分」を解決しなければなりません。その安全な解決法が当面見つからないことは、関係者、学識者のあいだでは歴然とした事実なのです。また、フクシマの原発事故の被災者への補償は、すでに当事者の東京電力が自力では不可能なことを明言しています。

 放射能汚染のやっかいなことは、2011年3月11日の事故の被害がその時点では特定できず、2年たった今日でさえ不明確で、さらに将来にわたってその被害が広がる危険性を内包していることです。水素爆発を起こした原子炉冷却のために、膨大な水(主として海水)を使用しました。その放射能汚染水すべてが太平洋に広がっています。海洋汚染の規模と程度は、直ちには測れません。空気中に拡散した放射能の降下による農産物被害もしかりです。太平洋を渡った北米西海岸での人的被害さえ語られ始めました。人体への影響は、チェルノブイリの経験では10数年を経て幼児に現れてきます。数兆円規模ではとても賄いきれない被害が今後出てきます。原子力発電は他のどの発電方式よりも高くつく、これがフクシマの教訓です。

 日本列島はいうまでもなく環太平洋造山帯上にあります。かつては、死火山、休火山と呼ばれていた山146-1は、1960年代以降、気象庁は歴史的に噴火のあったことが明確な山は全て活火山とすることにしました。こうして日本列島は、樺太に続く北の島々から、南西諸島全てで、活火山と無縁ではないことが確認されました。かくて、地震が起きない場所は、国内どこにもないでしょう。完全に地震災害から免れる場所はありません。原子力発電所の立地条件として、いかなる地震もないことが挙げられるのであれば、国内ではそれを探すことはできません。活断層か否かが議論になることがおかしいと思われます。それは、直下型の大地震に対して原子力発電所の構造が十分耐えられる理論的な根拠のないことの裏返しなのです。いかなる地震に対しても100%事故が防げる原子力発電所建設の費用は、その建設の可能性を含めて今まで誰も算出していないからです。

 少なくとも筆者生存中に、100%事故の危険性のない原子力発電所が、高レベル放射性廃棄物の安全な処理方法を携えて稼働を始めることは不可能だと思われるのです。水力、風力、地熱、太陽光などの自然エネルギーの開発にはこれまで以上に力を傾注すべきでしょう。残念ながら、こうした自然エネルギーには、安定供給の保証がありません。

 今日の地球上の生命は、太陽を中心とした太陽系の惑星で、軌道上太陽から3番目にある物理的な天文上の位置によってもたらされました。太陽エネルギーが命の源とさえいえるかもしれません。ではその太陽エネルギーはどうやって作りだされているのか。その太陽エネルギーの源は、核融合反応です。太陽中心部で間断なく繰り返される水素原子4個が融合してヘリウム原子1個が作り出され、そのヘリウム原子の質量が4個分の水素原子の質量より0.7%軽いことから、喪失した質量がエネルギーに変換されてその輝きがあると説明されます。水素がすべてヘリウムに変換された時が太陽の命の終焉です。まだあと50億年ほどはあると推測されています。

 現在の原子力発電は、重い原子であるウランやプルトニウムの原子核分裂反応を利用した核分裂炉をその中心とします。太陽エネルギーの源である、核融合反応はちょうどその対極にあります。利用するのは、きわめて軽い原子である、水素とヘリウム。ウランやプルトニウムといった重い原子の各分裂ではなく、きわめて軽い原子の核融合なのです。地球上に生命が存在できる限界まで、おそらく水素とヘリウムは存在し続けるでしょう。極めて暴走することの理論的な可能性の低い核融合反応によるエネルギーの創出は、理想的な目標だと思われます。既に核融合の研究はなされ、核分裂の研究と表裏をなすといってよいかもしれません。化石燃料にはその量に限界があり、自然エネルギーにはその供給安定性に問題が残るとすれば、将来の人類が必要とするエネルギーとしては核融合エネルギーしかないのではと思うことすらあります。

  核融合に関する国際的な取り組みはだいぶ前から進められています。第2次世界戦争後、敗戦国日本の核兵器や、宇宙開発につながる航空機をはじめとした先端分野の研究には、国際的な規制がありました。軍事利用の可能性のないと理解された核融合の研究には規制がなく、既に1960年代には国内の核融合研究者は世界的な広がりを求めています。1970年代には、国内の核融合研究はそれに不可避な高温プラズマの研究を合わせ世界でも決して後塵を拝する立場ではなかったようです。専門外の筆者にとっては評価のしようもありませんが、すくなくとも核融合研究推進のために推進されている国際組織ITER機構(本部フランス)の中での位置は相対的には決して低くないと評価されます。

 残念ながら、原子力発電(核分裂型発電)は、様々な利権と、ひょっとすると将来の核器への転換の可能性を持っているという意味での政治的な利用価値があったために、多額の公的な出資とその見返りが望めました。それゆえにこそ長期安定政権とその一部の政治家、官僚、電力会社、学識者が群がってムラを形成もしました。しかし、核融合研究には、それ自体が極めて多額の経費を要するにもかかわらず、多くの関係者利益を産まないこと、また兵器利用への可能性がないことからそれほどの注目を浴びずに今日に至っていると思われるのです。マスメディアは、原子力に変わる代替エネルギーとして化石エネルギー使用の火力か、自然エネルギーの風力、水力、太陽光、地熱エネルギーを挙げますが、核融合エネルギーの解説を見たことがないのは筆者の怠慢だったのかもしれません。その実現には、まだ20年、または30年もが必要だとも言われています。しかし、暴発性のない、また兵器転用危険性が低く、安全性においては核分裂反応とはけた違いに問題のない核融合炉の建設へ向けた研究、その周辺分野の広がりへ投資すべき予算は本来無制限であってもよいのかもしれないと思えるのです。

 

 

 




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