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第08回 2001/6/15

いつも、お読みいただきありがとうございます。皆様からのご質問で、多いのは「CECの製品作りについて、どんなポリシーで作られているのか、ベルトドライブでCDプレーヤーを作るという発想は、どこから生まれたのか等、もっと良く知りたい」というものです。そこで何回かに分けて、CECの製品作りの基本的な姿勢や、ベルトドライブCDの開発秘話について述べてみたいと思います。

再生音楽に対するCECの基本的なスタンス・その3
CEC・CDプレーヤーへの道

CDプレーヤーが開発・発売され、一躍脚光を浴びるようになって既に二十年になろうとしています。CDプレーヤー発売当時から数年間は、アナログレコードかデジタルのCDかと言う議論が、盛んにオーディオ雑誌に百花繚乱の賑わいだったことが思い出されます。いまや、伝統的であったレコード盤で新譜の曲目が発表されることも無くなり、レコード盤の生産自体が注目の度合いを著しく減らし、あたかも忘れ去られたかのようです。産業革命以降の歴史は、「技術的に優れたもの」や「聴感的に音楽性あふれるもの」をではなく、産業的により拡大する可能性を秘めた製品をその時々の勝利者とするようです。

確かにCDとCDプレーヤーの発売以降、光メディアデバイスの技術的革新を糧として、DVD等の新たなカテゴリーの展開をもたらしながら、デジタル録音、再生機器の目覚しい開発とその消費市場の拡大は、それ以前のエジソン以来のアナログ半世紀の全生産量と金額を、10年を経ずして凌駕してしまいました。

ご存知のようにCECは、1954年の会社創設以来一貫してアナログレコードプレーヤーの開発と販売に専念してきたわけですから、1980年代初頭のCDプレーヤー台頭と、必然と言われたアナログレコードプレーヤー衰退予測の脅威の前に、大いに頭を悩ませたものです。レコードプレーヤー専門メーカーがCDプレーヤー全盛へと向かう趨勢の中でいかに生きるべきか、大きな会社の転換局面にたたされたのです。また、私自身1970年代の最後の6年間を、貿易販売業務専任として従事し、79年に本社に復帰、すぐに全体の営業活動を任されて間もない頃でしたので、これは最初にして最大の難関でもありました。これは、オーディオ雑誌もしくは業界新聞で報じられることはありませんでしたが、CDプレーヤーが登場するよりも2、3年早く起きた現象として、この80年代初頭、当社以外にもあったレコードプレーヤー専門のそれも多くの台数を生産する、所謂OEMメーカーが業種転換し、次第にレコードプレーヤー生産から遠ざかるという、全体としてのレコードプレーヤー生産衰退の傾向が、全世界的にあったのです。

直接には、1970年代後半に顕著となった、米国市場を中心とするシステムコンポーネントの販売の行き詰まり、減少化傾向に影響されてのものでした。従って、日本のオーディオメーカー各社は出口を求めて、ミニコンポシステムの開発に全力を投入し始めていたのです。大型システムコンポーネントからミニシステムへの移行期に、歴史ある幾社かのレコードプレーヤー専門メーカーは、舞台を去っていったのです。CDプレーヤーが登場した当時、CECにとって事態はそれほど深刻で無いように思えました。と、いいますのも、OEMメーカーとして次第にライバルが減っていき、受注状態は決して悪化してはいなかったからです。

しかし、レコードプレーヤーの将来は幾ばくかの楽観論はあるとはいえ、決して明るいものでないことは自明でした。とりあえず、CDプレーヤーを開発生産しなければ、その先が見えてこないというのが結論でした。

CEC最初のCDプレーヤー、モデル550CD

こうして1985年、CEC最初のCDプレーヤー、モデル550CDを生産発売するに至ったのです。このモデルは国内で発売されることは無く、すべて輸出市場に向けられました。恐らく5、6万台の生産であったかと記憶しています。アナログレコードプレーヤーの技術的蓄積しかない当社にとって、回転原則のまったく異なる(角速度一定と線速度一定)、ましては、未知の光レーザーピックアップを使用した記録読み取り方式を採用したCDプレーヤーの生産など、それ以前の設計者にとっては、きっとまったく不可能と思っていたのではないでしょうか。

実はこのCEC最初のCDプレーヤーは、当時のCEC・中央電機の親会社であった、三洋電機・東京製作所の全面的な協力の下に可能となったものでした。会社どうしの親子関係というものは、持ち株資本によってもたらされるものですが、大きな親会社の本社機能が子会社を管理するというものではなく、たいていの場合、親会社の一事業部単位が直接的にはその管理に当たります。当社の場合は当時のステレオ事業部がそれでした。

三洋電機との合併以前、東京三洋電機と呼ばれていた、三洋電機・東京製作所のオーディオ部門は、FISHERブランドを持ち、1970代中葉、全米でのシステムコンポーネントの市場占有率を50%以上にまで伸ばしていました。(その中のレコードプレーヤーは当社が生産委託を受けておりましたが。)そのシステムの販売が不振に陥ったのですから、CDプレーヤーへの転換は、至上命令でもあったわけです。この三洋電機・東京製作所のCDプレーヤーの技術は、その後、レザーピックアップ開発の技術へと専門化し、現在では、全世界市場でSONYに次いで第2位の市場占有率を持つに至っています。

さてこうした、親会社の統括事業部の流れの中で、子会社に対してレコードプレーヤーの委託生産依頼ができなくなった親会社にとって、子会社であるCECが自社ブランドでCDプレーヤーを販売し、その主要部品アッセンブリーを親会社から購入するわけですから、何の異論も差し挟まれること無く、CECの新事業は、親会社の承認と協力の下、スタートできたのでした。

この段階で私たちが考えたことは、CECらしいCDプレーヤーをそのうちに作ろう、同時にアナログ時代最後の誠意あるレコードプレーヤーを作ろうというものでした。こうしてレコードプレーヤーは、1989年にST930を、そして1994年にFR-XL1を、直接にはアナログプレーヤー衰退をバネとして、いわば専門メーカーの意地として開発されました。残念ながら、ST-930は部品メーカーのこの業界からの全面撤退により、昨年2000年9月で、11年間の生産・販売を打ち切らざるを得なくなりました。

自画自賛ではありませんが、ST-930の販売価格13万5千円は、CECで無ければ実現できないすばらしいコストパフォーマンスを持った製品であると同時に、この価格帯では決して他社に聴感上遅れをとることのないものだったと今でも自負しております。このST-930に遅れること3年を経て、CECらしいCDプレーヤーとして販売に踏み切ったのがベルトドライブ方式CDトランスポート、TL-1であり、その上位モデルTL-0でした。このベルトドライブについての説明は、次回に譲らせてください。

さて、このベルトドライブCDトランスポートに刺激されて開発したアナログプレーヤーが、FR-XL1だったのです。FR-XL1は、ST-930とTL-1を発表した後となっては、中途半端なものはできないという雰囲気の中で、純粋にかつてのフォノモーターを意識して開発されました。1950年代の創立当時の理念を、ほぼ半世紀を経て実現できたものと確信できます。

残念ながら「ステレオサウンド」誌のアナログ特集号での評価は、極めて落胆的なものでした。しかし、根本的にこの製品が、レコードプレーヤーとしてではなく、フォノモーターとして開発、販売されているという根本的な事実を認識していただけなかった、それゆえ聴感上の評価は、適切なトーンアームとその設定、音曲に合わせたカートリッジの選定なくしては成り立ち得ないことを条件とした評価でなかったことは、残念でなりません。筐体に非加熱性金属含有セラミックを使用したため、残念ながら輸送に弱く、多くの生産を確保することなく短命に終わったモデルでしたが、今でも海外の中古市場では、新品当時の価格を大幅に上回る値段で取引されているようです。