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第008回 2006/01/20
巨人リヒテルが弾くバッハの平均率クラフィア曲集

DISC8

日ビクター VICC-60071-4(4) CD
ヨハン・セバスティアン・バッハ
『平均率クラフィア曲集 第1巻 および 第2巻』

スヴャトスラフ・リヒテル(p)
(録音:1973年7月〜8月 インスブルック)


 20世紀ソ連の生んだ優れたピアニストの代表格といえば、やはりスヴャトスラフ・リヒテルということになろう。1940年代からソ連国内では超絶的技巧の持ち主として普く知られていたようだが、西欧世界では、ヴェールに包まれていたこの謎多きピアニストの存在が漸く知られるようになったのは、同国の同じく代表的ピアニスト、エミール・ギレルスが偶々西欧への公演旅行の際、ソ連には自分など、とても及ばない天才ピアニストがいることを語ってからだと云われる。

 1915年、ウクライナ生まれ、ピアニストだった父から最初手ほどきは受けたようだが、以降はほとんど独学、十代のころから地元オデッサの歌劇場で伴奏者を務めたりしていたが、1937年になって漸くモスクワ音楽院に入学し、名教師ゲンリヒ・ネイガウスに師事する。1940年、プロコフィエフのソナタ6番を世界初演、45年、全ソ音楽コンクールに優勝、50年にはスターリン賞を受賞。そして、53年そのスターリンの葬儀で演奏する。
 しかしながら、この時期、個人的にはドイツ出身の父親がスパイ容疑で銃殺されたり(1941年)、その後こともあろうにその父を密告したとも云われる男と連れ立って母親が国外へ亡命、自身も幾多の官憲による追求や迫害を受けたりなど、実情はリヒテルにとって暗たんたる不安と苦悩の連続だった。父親の銃殺の経緯も暫くはモスクワに居たリヒテルの元には全く知らされず、自身後に告白しているように、この期間は、彼の生涯の最も暗い1ページとなっている。
 1950年代になって初めて旧東欧諸国への演奏旅行が許される。1960年代には、漸く西欧諸国でも彼のライヴを聴くことができるようになったが、人々は、彼の演奏に、単なる目を見張るような超絶的技巧だけではなく、鋼鉄のような強靱さと巨大なスケール感、その中に滲み出る詩情と即興的な諧謔性を見いだして唖然とすることになった。
 リヒテルは、こよなく日本を愛したことでも知られており、演奏回数でも、父親の母国ドイツに次ぎ、1970年9月以来9回来日して、日本各地で何と161回の演奏会を開いている。その中には、北は札幌、釧路、函館、八戸、盛岡、秋田、福島、喜多方、南は 沖縄、鹿児島、熊本など多くの地方都市が含まれる。晩年は、専ら日本のヤマハ製ピアノを弾いたことでも知られているが、同時に1967年以来、30年にわたるヤマハの調律師・村上輝久氏との交友関係についてはNHKの番組「プロジェクトX」など、テレビなどで何回も取り上げられ、日本人には頗る馴染みのある存在となった。
 その巨人リヒテルが 1997年8月、82歳で亡くなって早いもので8年以上が経過する。

 さて、バッハの平均率クラフィア曲集。ベートーヴェンの32曲のピアノ・ソナタが新約聖書と呼ばれるのに対し、こちらは旧約聖書と呼ばれる鍵盤楽器のバイブルとも云うべき古今の傑作である。命名者は、19世紀ドイツの大指揮者ハンス・フォン・ビューローだった。
 平均率とは、1オクターブを単純に12の半音に等分して調律することであるが、この曲集は全2巻から成り、第1巻は1722年、第2巻は44年に作曲。各巻ともに、この平均率で分割された12音の全ての調(12の長調と12の短調)による24の“前奏曲とフーガ”からなっている。(従って、1、2巻では合計48曲となる。)
 この「平均率」自体はバッハの創始に成るものではないが、当時、純正調に近い「中全音律」などが全盛だった時代にあって、この平均率による「クラフィア曲集」を最初に集大成したのがバッハであり、西洋音楽における方向性を大きく決定づけた。こうして、その後の一大潮流となった「平均率」のためのレールを敷設したような画期的作品集も、元はといえば、彼の子供たちの練習用に作曲したもので、その中から適当な作品を選んだものだった。「第1巻」のまえがきには、「音楽の学習をこころざす若い人々の有益な使用のため、および、すでにこの学習を身に付けた人々の特別な慰みのために」と書かれているが、バッハの音楽を聴きながら何時も感じることは、神と向き合ったバッハに対して、神が何ごとかを囁くとバッハは神の啓示をそのまま何も付け加えずに譜面に書き写しているのではないかという妄想である。言い換えれば、我々は、奏でられるバッハの音楽の背後に神の声を直接聴いているような錯角を覚えるのである。この「平均率クラフィア曲集」の場合も、また然り。神の意思がいろいろな形で夫々の曲に反映されつつ、全ての調性による一大コスモスが形成されており、この作品集もまた文字通り絢爛たるバッハ音楽の集大成になっているのである。

 あらゆるレパートリーに積極的に挑戦したリヒテルも、この作品が好きだったとみえて、必ずしも通しではなく、むしろ個別の場合がほとんどだったが、第1巻の1番/2番/4番などは実に50回以上も演奏会で取り上げた。録音でも、全集では、第1巻が3種類、2巻が2種類ほど発売されたが、一般的なのは、1970年、ザルツブルグで録音された第1巻と72年ザルツブルグと73年ウィーンで2回にわたって録音された第2巻であろう。
 ここでは、比較的珍しいオーストリアのインスブルック録音を取り上げたい。第1巻/2巻ともに1973年7月と8月に、同市のシュテイフィッツ教会で収録された。
 ここでの演奏も、一般的には淡々としたアカデミックで無機的な「平均率」の演奏が多いなかで、1つ1つの曲に自身の感情を投入することにより、親しみ易い暖かさと厳しさ、更にはバッハ特有の深い精神性・宗教性が感じられ、そのなかに巧まずしてスケールの大きさと多彩さが表出されるのも、いかにもリヒテルたるところであろうか。古来、エドウィン・フィッシャー、ランドフスカ、ヴァルヒャ、グールドなど幾多の名盤が存在するなかでも、一際、異彩を放つ名録音といえよう。

 カヴァー写真は、ピアノを弾く比較的晩年のリヒテル。裏表紙も、アルテム・タムビエフによるポートレイトだが、会場を暗くして、蝋燭を灯し、スコアを前に置きながら演奏するリヒテル像である。どちらかといえば、こちらの方が、晩年の演奏風景を彷佛させるようなので、同時に掲載したい。